「過剰可視化社会」という平板な社会を変えられるか

與那覇潤の「過剰可視化社会 「見えすぎる」時代をどう生きるか」によると、日本のコロナ禍がここまで深刻化したのは2010年代以降の「過剰可視化社会」による影響が大きいという。

「過剰可視化社会」とは、日本人の多くがSNSを使い始めた結果、特に親しい人でもない人の「政治的な意見や信条」「抱えている病気や障害」などが、プロフィール欄などによって過剰に「見えて」しまうようになった状況を指す。「見せる」ことに伴う副作用の存在を忘れてしまったのが、現状の社会であり私たちなのである。

政府も国民も、ゼロ・コロナのような「誰にでも見える成果」ばかりを追うようになっている。少数者の存在を社会から消去する方向に向かい、少数者を擁護するはずだったリベラルの一部ですら同調圧力に屈してしまった。

われわれは、「見せる」ことの副作用をもっと真剣に考え、政治とメディアとの付き合いかたも考え直さなければならない。

中盤以降のそれぞれの分野の俊英三者(東畑開人、千葉雅也、磯野真穂)との対話は、 ひじょうに興味深い。コミュニケーションや共同体、社会体制といった今まさに議論しなければならないのに、問題点すら認識されていない事がらについての議論が展開されている。

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いくつか興味深かった論点を紹介したい。

タグ付けしない勇気について

タグを経由しないで相手を認識するのは人間にはとくに難しいことだ。われわれが相手をタグ付けすることによって安心する。これが昨今はさらに進み、発達障害のようなマイノリティの属性を自らをタグ付けしアピールすることによって、関係を築こうとしている。

今のようにアトム化したネット社会が広がっていく中で、アイデンティティのあまりの固定化は、様々なコミュニケーションの齟齬を生むようになってきた。この点は認識されるべきだろう。

行き過ぎたルッキズムについて

ルッキズムは昔から批判されていながら、「過剰視覚社会」では、より影響力が増している。そして、外見や外聞にこだわってしまうのは、何か別のことの欠落のようだ。われわれがある人を評価するときの評価軸がひとつしか作れなかいために、その評価軸に追い込まれているという指摘は傾聴するに値する。

これからの共同体の維持について

共同体を維持するために宗教があったという指摘も鋭い。共同体を維持する装置がなくなった今、日本人ないし先進国の人間はどこに向かうのだろうか。これらの方向性は所与のものとして、自分や家族といった身の回りの人間への被害をいかに抑えるかに心を砕いたほうがいいのだろうか。

もちろん、「過剰可視化社会」の主要な論点はこれだけではない。「過剰可視化社会」を生んだ原因もひとつに決め打ちなどできるはずがない。ぜひ全体を通して本書を読んで、社会や共同体について立ち止まって考えてほしい。

今回も、著者は多く人が見落としがちな盲点・問題点を鋭く指摘しているが、一方で明日から生きる希望も照らしいている。