足立康史議員の「芦田修正」質問に歯がゆさ

篠田 英朗

日本国憲法(首相官邸サイトより)

5月27日衆議院予算委員会で、足立康史(日本維新の会)衆議院議員が、憲法9条に関する「芦田修正」について質問をした。政府はなぜ「芦田修正」を採用しないのか、というものであった。その含意は、日本維新の会は、既存の憲法解釈にとらわれず「芦田修正」の採用に関心を持つ、というものだった。

これに対する岸防衛大臣と岸田首相の回答は、「芦田修正は、自衛のための武力行使を無制限と解するものだが、これは政府の憲法解釈とは一致しない」というものだった。

これに先立って5月19日、衆議院憲法審査会で、やはり足立議員が「芦田修正」を認めてはいけないのか、という意見を述べた。これに対して国民民主党の玉木雄一郎代表が、「もし9条2項の冒頭に『の』も入っていて『前項の目的を達するための』になっていたら意味が変わっていたが、そうではないので政府の説が正しい」といった、公務員試験対策で使った憲法学の教科書を読み直して答えています、といった雰囲気の恐ろしくスケールの小さいやり取りがあった。

残念である。

憲法改正の議論がこうした隘路に陥っているのを見るのは、本当に残念である。

芦田修正に関する私の指摘は、拙著『憲法学の病』41頁前後や、203頁以降「9.本当の芦田修正」章などで書いてきたし、ネット上でも『アゴラ』さんを通じて記録に残っている。

「芦田修正」という憲法学の陰謀
前回のブログでは、「芦田修正」についての記述が舌足らずだったかもしれない。「芦田修正」というと、憲法学では、9条2項に「前項の目的を達するため、」という文言を入れて自衛戦争の留保を狙った、姑息だが失敗した措置として知られている。 しかし私...

正直、何度書いても、「公務員試験と司法試験を牛耳っている憲法学者の教科書が全てです、この世で価値があるのは公務員試験と司法試験を牛耳っている憲法学者だけです、それ以外の人物の憲法解釈は無価値です」と頑なに信じ続けている人には全く響かないのだろう。そう思うと、あらためて書くのも徒労感がないわけではない。が、重要ではある。一応、整理の意味で、書いておく。

1. 「芦田修正」なるものは存在しない、それは憲法学者の陰謀の所産である

憲法学者の教科書を読むと、芦田均・憲法改正小委員会の委員長が、日本国憲法案を審議していた際、裏口からの憲法改正を試みて9条1項冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」という文言を挿入し、9条2項冒頭に「前項の目的を達するため、」という文言を挿入した、という説明に出くわす。

憲法学通説は、「しかし芦田の試みは失敗した、挿入の仕方が下手くそだったので、9条の趣旨を変えることができなかった」と結論づける。改憲論者を挫く結論を強調するために、憲法学通説が「芦田修正」という概念を作り出したのである。

芦田均自身が、「芦田修正」について語ったことはない。芦田自身が、憲法学者が言っているような意図を持って修正を行った、という説明をしたことはない。全ては憲法9条解釈を有利に運ぶために、面倒な文言については「姑息な芦田が挿入した陰謀の試みだが失敗したので、異質なものに見える文言は全て無視して憲法学者の教科書の記述だけを信じてください」といった結論を主張するために、憲法学通説が作り出した物語でしかないのである。

2. 「芦田修正」と言われているものは憲法の趣旨の明確化

それでは「芦田修正」と呼ばれ、憲法学者たちによって「通説から見ると異質なものに見えるが芦田の陰謀の失敗の記録でしかないので、無視してください」という扱いを受けている9条1項・2項の冒頭の文言は、何を示しているのか。

前文を読んで、9条を読んでほしい、ということである。現在の9条は、GHQ草案では1条だった。9条は、前文と連動性が高い内容を持っている。GHQ内では、そもそも9条を前文の一部とするべきではないかという議論もあった。一つの条文として成立したのは、具体的な法的拘束力を示すために条文化しておくべきだ、という判断によるものだった。しかしいずれにせよ、いわば前文の内容をまとめて、条文化したのが、現在の9条である。

9条が1条ではなくなったのは、大日本帝国憲法改正手続きをへて新憲法が制定される過程において、大日本帝国憲法と同じように天皇に関する規定が「第1章」を構成すべきだということになったからである。その結果、「第2章」は短文の9条だけによって構成されるという歪な構造が生まれた。

芦田が懸念したのは、この措置によって、前文と9条の連動性が見えにくくなってしまうことだった。そこであらためて前文の内容を短く要約する形で「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」という文言を挿入したのだった。

前文で謳われている国際協調主義の精神があり、9条がある。戦争に負けて一方的に武力を奪われるのが9条の内容ではない。9条が宣言しているのは、日本は国際法を遵守していく、ということである、というのが、芦田が明確にしたかったことであった。

つまり芦田は、前文から謳われている日本国憲法の論理構成の中で9条があり、その精神は国際協調主義である、という点に誤解の余地がないようにしておきたかっただけだった。

芦田均は、外交官出身の国際派で知られた政治家であった。不戦条約に至る「国際法の構造転換」にも詳しかった。そのためGHQ憲法草案を正確に読んだ。ただ、残念ながら、プロイセン憲法を模した大日本帝国憲法とドイツ国法学の概念構成に浸りきっていた憲法学者たちやその弟子である内閣法制局の面々は、そのように憲法を読むことができなかった。そのため国際法のロジックを憲法に持ち込むことそれ自体をクーデター行為であるかのようにみなした。

そこで憲法学者たちは、憲法成立後に、「そうではない、前文が何を言っていようとも、9条は非武装中立の条項であり、たとえ国際法規範から逸脱してでも、決して武力を持たないという意味の規定だ」と主張するようになった。

意味を明確にしようとする芦田の意図は否定され、「芦田こそが憲法の意味を変えようとした姑息な陰謀論者だ」といった憲法学者の主張の方が社会を覆うようになった。東大法学部の必修授業や、公務員試験や、司法試験を通過してきた国会議員も、洗脳されるのが当然のこととなった。

3.国際法にそった自衛権の行使は無制限ではない

国際法における自衛権の行使には、必要性の原則と、均衡性の原則という二つの制約がかかる。これは国連憲章51条が自衛権を創設したのではなく、1945年以前から慣習国際法の中に自衛権が存在していたために成立している事情で、この理解を認めていない国は存在しない。

国際法を遵守する立場から9条が作られていることを確認しようとした芦田の試みが、「無制限の自衛権の行使」を志向するものであった、という現在の日本政府の理解には、全く歴史的な根拠がない。芦田の理解としては、間違いである。

政府が国会答弁で使っている「芦田修正」の理解は、「芦田は姑息な方法で憲法の内容を変えようとしたが失敗した人物である、という憲法学者が作り出した陰謀論的な物語」の説明でしかない。実際の芦田とは関係がない。単なる憲法学通説の陰謀論の物語でしかないのである。

日本政府は、「芦田修正をとらず、憲法は必要最小限の実力行使だけを認めていると解釈する立場」を採用しているという。ここに全ての不幸がある。最初から芦田にならって、「日本国は国際協調主義の立場から国際法を遵守する、したがって国際法にそって必要性と均衡性の原則にそって自衛権を行使する」と説明できていれば、70年以上にわたる大混乱を防ぐことができた。

今になってまで日本人は、「われわれが作り出した『必要最小限の実力行使』という謎の概念の本当の意味は何か」といった頓珍漢な問いと格闘している。1945年の芦田の方が答えをよく知っていた。それは「国際法が定める必要性と均衡性の原則に沿った自衛権の行使」でしかないのである。

しかし「芦田やら篠田やらなどは絶対に認めない、重要なのは東大法学部の必修単位と、公務員試験と司法試験を誰が牛耳っている憲法学者であるかどうか、それだけだ」という立場に頑なに固執し続ける国会議員の先生方は、どこまでも果てしなく的外れな謎々を続けていくつもりだということなので、本当に残念でならない。

4.「自衛戦争」は国際法の用語ではなく、大日本帝国の用語

混乱は、戦前の大日本帝国憲法時代に確立された概念構成に、日本の憲法学がとらわれすぎ、未だにそこから(イデオロギー的事情もあって)脱却できないことである。

それを象徴するのが、「自衛戦争」という概念である。しばしば「芦田修正は自衛戦争を肯定するもの」と説明される。だがこれは日本国憲法の趣旨をいたずらに混乱させる説明でしかない。なぜなら「自衛戦争」なる概念は、国際法には存在しない概念だからだ。「自衛戦争」は、戦前の大日本帝国憲法時代の日本で、不戦条約を締結したにもかかわらず満州事変を起こしてしまったとき、「統帥権」などの天皇大権を理由に正当化を図ろうとした際に日本人が勝手に作り出した概念でしかない。

「自衛戦争」という概念それ自体が、反国際法的なものである。したがって「自衛戦争を合憲ととらえるか否か、答えよ」という問いを設定する時点で、「まずは国際法の枠組みは否定する立場をとったうえで、この質問に答えよ」という前提を強いているのである。問いを発している時点で、国際法を尊重する国際協調主義を標榜する日本国憲法を真っ向から否定することを強いる問いなのである。

第一次世界大戦後に成立した1919年国際連盟規約が「戦争(war)」を違法とする新しい国際法の仕組みを導入した。1928年不戦条約は、その「国際法の構造転換」をさらに強化した。日本国憲法成立前にすでに存在していた1945年国連憲章も、「戦争」を違法とする国際法を強化するものとして導入された。

世界の誰も国際法を議論する場で、国際社会の規範原則を前提とする外交の場で、「合法的な戦争はありうるか」などといった問いは発しない。なぜなら国際法において「戦争」は違法だと決まっているからである。

「自衛権の行使」は、この違法化された国際法上の「戦争」とは区別される。それは違法化された戦争に対する合法的な対抗措置のことである。

戦争は全て違法であり、侵略(aggression)行為のことである。ただし、戦争を違法化しただけで、無法者が違法行為である戦争に訴えることを止められるわけではない。違法行為である戦争を抑止するための制度が必要である。

国内社会では、犯罪に対して対抗措置をとるのは、警察官などの国家機構だけだと定められている。しかし国際社会には、世界警察も世界政府もない。そこで別の形での違法行為に対する対抗措置が必要になる。それが国際法が定める自衛権であり、集団安全保障である。これらの対抗措置の制度がなければ、現実には無法者が違法な戦争に訴えても、それを止める手段もなく、戦争違法化は、絵に描いた餅になってしまう。

自衛権の行使とは、違法行為に対する対抗措置である。それを何とかして「自衛戦争」だとかなんとか大日本帝国憲法時代に作られた怪しい謎概念で言い換えようとする必要はない。素直に、端的に、自衛権の行使とは、違法行為に対する対抗措置である、とだけ言えばいい。そして、素直に、端的に、そこに必要性の原則と均衡性の原則という制約がかかることを述べればいい。

そのときにわざと「さあこの国際法上の自衛権と、『自衛戦争』とか『必要最小限の実力』などの国際法には存在しない日本人が勝手に作り出した概念との関係はどうなっているでしょうか?」と問うたところで、誰も正確に答えられないのは当然だ。問いが間違っているのである。

「国際法学など無視したい、国際法の概念構成など使いたくない、東大法学部の必修授業と公務員試験と司法試験を牛耳っている憲法学者だけが偉い、それだけだ」という怪しい習慣から抜け出る覚悟さえ定めれば、それでいいのである。日本国憲法の解釈も、ただそれだけで、全ての謎がなくなるのである。

5.真の「芦田修正」は国際法尊重主義

「芦田修正」について、まとめよう。芦田が行った修正は、前文と9条の連動性を明確にして、憲法の国際協調主義の立場から、9条が成立していることを明らかにするものだった。

98条2項でも国際法の遵守を謳う日本国憲法は、「自衛権は無制限」などと主張するものでも、「自衛戦争なら合憲」と主張するものでもなく、「必要性の原則と均衡性の原則にそった国際法上の自衛権の行使」だけを認めている。憲法を起草したマッカーサーやGHQ関係者は、そのように考えていた。国際法に明るかった芦田均もそう考えた。「真の芦田修正」も、当然そのことを明確にする意図を持ったものだった。

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