人間の精神性

ドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアー(1788年-1860年)は、「最近の発言でありさえすれば、常により正しく、後から書かれたものならば、いかなるものでも前に書かれたものを改善しており、いかなる変更も必ず進歩であると信ずることほど大きな誤りはない」との指摘を行っています。

そしてそれに続けては、「思索的頭脳の持ち主、正しい判断の持ち主、真剣に事柄を問題にする人々、すべてこの種の人々は例外にすぎないのであって、うごめく虫類こそ、いわば世間をひろく支配する法則となっている。このような連中となると、例外的な人々が熟慮の結果試みた発言をいつも素早く敏捷(びんしょう)に改善しようとして、かってに改悪する」と言っています。

昔のことになりますが、私は此のフェイスブックに投稿した『機械と人間』の中で、次のように指摘しました――機械文明というのが確実に進歩して行っている一方で、精神文明というのは進歩して行かないわけですが、なぜ進歩していかないかと言えば、人間には死というものがあるからです。

これ即ち、機械文明が人類社会の誕生以来今日まで退歩せず途切れなく進んできたのに対し、如何に崇高な精神性を帯びた人も何れは死を迎えねばならず、また偉大な子孫を残した人も皆地上から消え去らねばならないわけで、精神文明についてはその全てが確実に受け継がれ日々発展させて行けるかと言うと、死を境に一度途切れてしまうものなのです。

戦争などは機械文明とは対照的に、人間の精神性が如何に進歩して行かないかを表す一つの典型例と言えましょう。人類は、幾度の大戦を経て多数の犠牲者を生み不戦の誓いを掲げながら、戦争を完全否定することなきままに今日まできているからです。冒頭ショーペンハウアーの言にもある通り、精神文明は新しきが古きよりも必ずしも良いとは限らないのです。

従って精神文明というのは往々にして退歩があり得、人間死すべきものであるが故の一つのギャップが機械文明との間に生まれて行くことから、機械文明がどんどん進歩し此のギャップが拡大して行く結果として、様々な問題を人間社会に生んで行くことになります。例えば我々人間は同じ地球上に現存しているにも拘らず、「デジタルデバイド…digital divide:コンピューターやインターネットを使いこなせる者と使いこなせない者の間に生じる格差。労働条件や収入、入手できる情報の量や質などに見られる」問題が益々深刻化していることも一つ挙げられましょう。

要するに私が何を言いたいかと言えば、人間の精神性というものが進歩と退歩を常に繰り返しているからこそ、先哲の知恵を学ぶ価値もあるということです。機械文明の如き進歩的様相を呈しているならば、そもそも過去のものを学んでも余り意味がないかもしれません。しかしそうでないからこそ、そこに知恵の宝庫・古典をたずねる意義が一つあるのだと思います。初代ドイツ帝国の宰相オットー・フォン・ビスマルク(1815年-1898年)も言うように、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」わけです。

『旧約聖書』に、「天の下に新しきものなし」という言葉があります。現存する全ては形は違えど過去に出来たものであり、洋の東西古今を問わず人間性も変わらないのです。故に古典に普遍妥当性が生まれ、それを今日まで生長らえさせ、二千数百年に亘りどの時代の人間が読んでも素晴らしいと思わせてきたのです。人間性というものが変わらぬ以上、歴史・時間という篩に掛かった東西の古典を味読して行けば、全人的教養や人間学的意味における哲理・哲学が品性豊かな立派な人格形成に役立つはずです。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2022年6月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。