有権者を馬鹿にする候補者と馬鹿にされても仕方ない有権者 --- 高梨 雄介

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都内某市の市長選で候補者の手伝いをし、驚いたことがあります。それは街宣車の運行ルートを検討する場でした。

子育て世帯が多いマンション近くを夜8時近くに街宣すると言っていて、しかもベランダ側からの方が声が聞こえるから良いという議論で、素人の私が「その時間に子育て世帯に街宣するのはどうか」と意見したところ、「何を言っているの?」という目で見られました。

駅頭や街宣車で名前(だけ)を繰り返し連呼する行為に、私は嫌悪感しか覚えないのですが、どうも心理学的には聞いた側の好意を引き出す単純接触効果が働くようです。

Wikipediaによると「はじめのうちは興味がなかったものも何度も見たり、聞いたりすると、次第によい感情が起こるようになってくる」ものだとか。これが票に結び付くことを示した研究もあります。なるほど、ただ名前を連呼するだけで有権者の好意を得られ、それが票に結び付くとなれば候補者にとっては合理的です。

しかし、有権者はだいぶ馬鹿にされていませんか。候補者は、単純接触効果で好意さえ持ってもらえれば投票してもらえる、つまり有権者は好き嫌いで投票する――公約をじっくり検証して判断するような理性的なアタマは持っていない――と侮っているからです。

子供の寝かし付けなんて知ったことか、と。元芸能人にお願いして立候補してもらったり、街頭で大道芸人のようなパフォーマンスをしたりするのも、同種の効果を狙ったものだと容易に推測できます。

もっとも裏を返せば、馬鹿にされるだけの理由が有権者側にもあるわけです。好き嫌いで判断するのは簡単で、アタマを使いません。逆に、好き嫌いの気持ちを一度封印して、候補者の「中身」を見比べるのは大変です。

公約に目を通し、どういった属性の人の方を向いているか、過去にどんな発言をしているか、影響を与える支持団体はどこかといった情報を収集し、それらを総合して判断する。さらに、自分の希望に100%合致する政治家なんていませんから、賛成できる部分とそうでない部分を天秤に掛けなければなりません。アタマを使う作業です。

今の政治は、有権者の大半がそのアタマを使ってこなかった成果でしょう。

有権者側は、街宣とか怪しいパフォーマンスに幻惑されず、「その人が何を言っているか」に注目するべきだと思います。その際は、その政策はよい結末をもたらすかという是非の観点のほかに、そもそも実現できるのかという可否の観点も忘れてはなりません。

極端な話、「半年で日本を世界一の経済大国に復帰させます」という公約だってアリなのです。到底実現不可能だろう、というツッコミさえなければ。

候補者側も、他の候補者ともっと深く政策論議をしてはいかがかと思います。中立で辣腕のファシリテータを付けて、基本的なルールを守った冷静な議論を交わす。基本的なルールとは「他人の発言をさえぎらない」「だらだらとしゃべらない」「話すときに、怒ったり泣いたりしない」(※)といった義務教育で教わるようなことですが、それすら守れず浅はかな罵り合いに終わるのが何と多いことか。口達者な候補者を見極める材料にはなりますが、結局「口だけ」の人も多い。

私個人としては、相変わらずの過剰なコロナ対策を抑止する候補者に投票したいと探しましたが、そもそもその話題が下火なようで比較検討する材料が揃いません。

罹患者が数名確認されただけでたびたび学級閉鎖する。楽しみに積み上げていた七夕の行事を反故にされた娘の悲しい顔は、その対策にバランスするものなのか。下火になったらあっさり言及しなくなる政治家各位に、国家百年の計を見据える目はあるのかと問い質したいものです。

余談ですが、代ゼミの恩師がこう言っていました。

「街宣活動することで、マトモな神経の人は嫌悪感を持ち、そこから選挙自体が嫌いになって投票に行かなくなるので、組織票を持っている政党や政治家が勝つことになる。」

(※)北川達夫著「図解 フィンランド・メソッド入門」経済界、2005年、p.69から。小学5年生が考えた議論における基本的なルールです。

高梨 雄介
上智大学法学部卒業後、市役所入庁。法務関係部門を歴任して数々の例規の起草、審査、紛争解決等に携わる。現在は公共団体職員として勤務の傍ら、放送大学で心理学を専攻中。