カルト宗教批判が隠す「民主主義の本当の脅威」

なぜ、辻元氏はこのtweetに「信仰」や「信教」を加えなかったのだろうか。現在、安倍元首相への銃撃テロに伴い旧統一教会(現世界平和統一家庭連合)に注目が集まっているが、これは日本国憲法20条に規定された「信教の自由」に悪影響を与えないだろうか。

報道の限り犯人の母親が入信していたようだが犯人自身は入信していない。ならば銃撃テロは「非信仰者によるテロ」だし、問題ある組織とはいえ一応、旧統一教会は攻撃対象だったのだから犯人と宗教の関係を強調することは慎重であるべきだ。

NHKより

日本でカルト宗教がなくならない理由の一つは辻元氏のtweetからわかるように宗教への認識不足が深刻だからである。

「正統な信仰」を示さず信仰者に対し「あなたの信仰は異様ではないか」と平然といってみたり、訳知り顔で「君の信仰を否定しない」とか「君の信仰を認める」とか言う人間も少なくない。信仰者への揶揄・からかい・白眼視は彼らを信仰世界の深みに誘いやがてカルトに到達させる。

大真面目に深刻な顔で「格差が深刻化しているから新興宗教が支持されるのだ」言う者は日本で新興宗教が大幅に増えたのは好景気の1980年代だったことを忘れている。

日本社会の宗教への認識・態度はカルトを警戒しているとはとても思えない。宗教への認識不足は日本人の「宗教の脅威」への理解も浅くした。日本人が考える「宗教の脅威」は神や霊を信じる行為そのものだろう。「神や霊という非合理的なものを信じている人間は何か重大な失調がある」といったところだろうか。

しかし、私達の住む世界には非合理的なものがあふれている。友情や恋愛は非合理的なものを楽しむものだしスポーツだってそうだろう。およそ娯楽は非合理性がなければ成立しない。この社会に「合理的な生き方」を実践している人間はどれほどいるのだろうか。

一人もいないのではないか。人間は本能のまま生きる野生動物ではないし無機質なロボットでもない。合理性と非合理性を上手く絡ませながら生きる文化的な動物である。別に新しい発見でもなんでもないが私はそう思う。

話を戻そう。宗教の脅威とは宗教が提示する世界観が強制されることである。神や霊といった非合理なものをどう評価するかは内心の問題で済む。

しかし、世界観はそうはいかない。

神の口から放たれる世界観とは生き方の指針であり人間の日常を拘束する。この世界観から逸脱することは許されない。世界観に没入すると「景色が変わる」まわりは逸脱者ばかりに見え世界観のとおりにしたくなる。これが世界観の強制である。

そしてこの世界観の強制は非信仰者もできる。宗教的思考の持ち主がそれである。宗教と宗教的思考は分けられる。

宗教的思考の持ち主は神や霊を信じていなくても強固な世界観を持ちこれを他人に強制する。

私達が「民主主義の本当の脅威」として警戒しなくてはならないのは神や霊のことを説く宗教ではなく世界観を強制する宗教的思考である。

現在、日本の宗教を取り巻く現状は「衰退」の一言に尽きる。

「恐るべき教団が有力政治家を取り込み日本を征服しようとしている」という状況ではない。

安倍元首相への銃撃テロ関連で「旧統一教会」の他「サンクチュアリ教会」とか色々な報道がなされているが推測するに要は「旧統一教会」は分派抗争の最中であり、これは衰退の現れに他ならない。国家や社会を征服する実力はない。

繰り返しになるが警戒すべきものは宗教ではなく宗教的思考である。

宗教的思考の持ち主として今、筆者が真っ先に思いつくのは反安倍である。

彼らは「憲法9条を至高の価値とした世界観」を持っている。反安倍の世界観では9条改正派は逸脱者であり「存在してはならない」のである。だからこそ9条改正(3項の追加)を主張した安倍元首相に罵詈雑言を浴びせていたと考えるべきである。

もちろん野党にもあてはまり日本共産党なら「憲法9条が完全実施された世界」立憲民主党なら「立憲主義が取り戻された世界」である。

宗教が衰退する一方で反安倍のような無軌道な勢力が目立つようになったのも偶然だろうか。

20年前ならば信仰世界に没入していたようなタイプが反安倍になっているのではないだろうか。

今回のテロ事件の報道によって宗教の衰退は更に加速し「消滅」はより現実的に語られるようになるだろう。

そこで「これで社会は理性的になった」と考えるのではなく宗教的思考の持ち主が政治分野に移動していないか注視すべきであり、これは銃撃テロの数ある教訓の一つであり、その比重も大きいものである。