安倍元総理暗殺を受け、今、メディア・国民に必要なこと、政治家に必要なこと

BlackSalmon/iStock

1.  情けない状況

安倍元総理が、誰も予想しなかった形で襲撃され、逝去されてから3週間が経過した。国内はもちろん、国際的にも大きな衝撃を与えたこの大事件を受けて、我々は何を考え、何を成すべきであろうか。

このような、一見深遠ながら、極めて当たり前のことを我々は、特に日本人としてしっかりと考察し、そのことを踏まえて行動しなければならないわけだが、そのことを促すべき各種メディアの報道を見ていると、3週間という期間を経てこの体たらくかと、ふがいない報道ばかりで腹が立ってくる。結論から言えば、山上容疑者の思うつぼのような展開である。本当にこれで良いのか。

私が受けている印象で言えば、本件に関するメディアの報道は、約9割が、各種政治家(国会議員、地方議員や首長)と統一教会の関係を追求するものばかりである。それも、本当に本質的なつながりを糾弾するものは少なく、「数万円の献金をもらっていた」「集会に挨拶に行っていた」と言った類の事実をあげつらうものが大半である。

多少、国葬の是非や警備のあり方などについての報道も出てはいたが、今やほとんどが、統一教会と政治家の表層的な薄いつながりを叩くものばかりだ。

政治や選挙の実務を垣間見たり、多少なりとも携わったりしたことがある人であれば当然に理解する話だが、献金をしてくれる相手などに関して、細かくいちいちチェックできるものではない。そして、何十年も前に少し統一教会の集会に挨拶に行ったことが指弾されているケースもある。選挙で勝つため、政治家として活躍するため、宗教団体に限らず、少しでも支援してくれる団体、集団のところに出向いて話をして理解を求めるというのは良くある話だ。政治家に限らず、統一教会から寄付を受けている地方自治体なども少なくないと聞く。

多少なりとも、怪しげな動きをしている統一教会と何らかの繋がりを作ってしまっていること自体は、政治家側に脇が甘い面がないわけではないが、喩えて言うなら、他人からペンを借りて、返し忘れて持ち続けてしまっている人を「極悪の泥棒」と糾弾しているような感覚がある。安倍元総理が殺された、という大事件の報道の大半を、こんなことが占めていて良いのだろうか。

この事件を機に、統一教会と本当に深く繋がっている問題ある政治家を指弾すること、また、統一教会の問題を徹底的にあぶり出していくこと、更に言えば、統一教会に限らず、問題ある宗教家と政治の既得権益的つながりをとことん糾弾していくこと。本当にそうしたことを真剣に希求するなら、それはそれで良いことだとは思う。そこまで徹底的にやるのであれば、冒頭の問い、すなわち、安倍元総理の死を受けて、「我々は何を考え、何を成すべきか」という根本的な問いへの一つの答え足り得るであろう。

しかし、現状は、ごく表層的に、多少なりとも献金をもらった程度で、当該政治家を政治的死刑にしようとも思えるような魔女狩り的報道が日本社会を覆っている。これでは安倍元総理も浮かばれない。

2. 山上容疑者の思うつぼ/5.15事件との比較

こうした現状にあって、最も得をしているのは誰か。殺人を犯した山上容疑者である。今後の調査によって、その背後関係などについて新たな事実が出てくる可能性もあるが、現状、判明している限りにおいては、安倍元総理銃撃の主たる動機は、彼の家族を崩壊させ、ある意味人生を狂わせた統一教会への恨みである。

その統一教会の存在感の大きさに報道の矛先の殆どが向かっている現状、そして、これは彼が本当に望んでいることかどうかは未知数だが、その報道の矛先が、特に、統一教会と政治家との繋がり(たとえ微かであっても)に向かっている現状を見て、ある程度溜飲を下げていることは間違いないと思われる。

更に言えば、本来高学歴な道を歩む可能性も高かった山上容疑者に対して、その生い立ちの可哀想さに対する同情がある程度集まっていることも、計算までしていたかは分からないが、彼の「思うつぼ」となっている一つの証左であるように思う。ネットの世界などでは一部、山上ファンとも言うべき女性たち(彼は、一部の方々から見るとイケメンらしい)まで現れている。

つまり、私が危惧するのは、「安倍元総理が殺害されたことは悲劇だが、統一教会に家族を滅茶苦茶にされ、格差社会の中で底辺を歩まざるを得なかった山上容疑者は可哀想だ。彼の行為は許されるものではないが、理解は出来る。罪は軽くて良いのではないか。」という空気感が醸成されてしまうことだ。

私は、安倍元総理が銃撃されてすぐのタイミングで、以下の論考にて、約100年前の日本との類似性について書いた。

原敬、浜口雄幸、犬養毅…一世紀前の暗殺連鎖の時代と現代の不気味な共通点 安倍元総理銃撃事件で日本列島にショック、歴史に学び「悲劇」繰り返すな | JBpress (ジェイビープレス)
 7月8日、安倍晋三元総理が奈良市での選挙演説中に背後から銃撃され、命を落とされました。「安倍元総理、撃たれる」との一報が入った時、なんとか一命をとりとめてもらいたいと願ったのですが(1/3)

具体的には、景気が悪く、周辺環境(諸外国の脅威)も増し、格差も広がっていた1920年代~30年代との比較において、今後、第二の山上、第三の山上が生まれかねない危険性について述べた。丁度約100年前の1921年の原敬首相暗殺犯は、直前の安田善次郎暗殺犯に刺激を受けたと供述している。

例えば、今から90年前(1932年)の5.15事件では、犬養首相(当時)を暗殺した青年将校に世間の同情が集まった。そのことが首謀者の減刑とも言われる事態に影響したと言われている。この過度な同情心が、「動機が良ければ、つまり、やむに已まれずとの仕方ない心情で動いた結果であれば、何をやっても許される」的な社会の雰囲気を作り出し、景気悪化と格差拡大、そして周辺(国際)環境悪化の暗い世情の中で、暗殺事件が横行した。こうした歴史を忘れてはならない。

山上容疑者は、世間の感情ではなく、法をもって裁かれるべきであり、日本の法曹界は、その意味では機能はしていると個人的には信じている。しかし、それでも、世論の動向というものは、往々にして判決に影響を与えるものであり、同情によって社会秩序が極端に乱されてしまってはならない。そのことで、最後に割を食うのは国民そのものである。

3. 最後に(メディア・国民に必要なこと/政治家に必要なこと)

さて、ここまで、メディアの報道ぶりの情けなさについて論難してきた。が、究極的には、メディアは、国民が見たいもの、聞きたいものを提供する媒体なので、最終的には、国民の問題なのかもしれない。

つまり、最も言いたいことは、メディアや最終的にはその受け手である国民は、安っぽい同情心や、分かりやすい宗教と政治の繋がりに右往左往するのではなく、冒頭の問い、即ち「安倍元総理の死を、どう受け止め、それを踏まえてどう行動すべきか」に、それぞれが向き合わなければならない、ということである。本当に糾弾すべきもの、糾弾すべき人を問い詰め、少しでもいい社会を次の世に残して行くことに取り組む必要がある。

そして特に政治家は、現在の状況をどう理解したら良いのか、自分の言葉で表現し、それを伝え、行動に繋げて行かなければならないと思う。本来、英語(米語ではない)では、真の政治家は、politician(政治屋)ではなく、statesman(政治家)と表現する。Stateとは、「述べる」の意である。

岸田首相をはじめ、多くの政治家は、この悲劇を「特に選挙中に起こった事件でもあり、これは重大な民主主義への挑戦」だと述べて来た。しかし、多くの国民は、その言葉は、政治家の心からの言葉ではないと見透かしている。上滑りしていると感じている。乱暴に言えば、それは、「作られた、飾られた」ポジション・トークである。山上容疑者が、民主主義に挑戦しようとしたとは、現状、誰も感じていない。

歴史は、節目節目で、為政者が、政治家が、心からの言葉で、時に国民を癒し、奮い立たせ、社会を創ってきた。今の状況をどう理解し、どう考え、どう行動すべきか、総理大臣や政治家にしっかり語ってもらいたい。私は個人的には、安倍元総理の国葬には賛成の立場であるが、総理をはじめとする現在の政治家が現状を自らの言葉でしっかり語ることなく、しっかりと国民に語りかけることなく、何となく国葬にすることには違和感を持っている。

聞く力も重要であるが、今こそ、述べる力が政治家(stateman)には求められているのではなかろうか。