故安倍元総理の『国葬儀』に関して、「民主主義を否定する行為だ」とか、法的根拠が無い、とする反対派の意見にメディアも野党議員も流されすぎている。
結論から言えば、内閣決定による『国葬儀』は可能だ。
ただ、時の内閣が『国葬儀』実施に慎重だったのは、その時代の背景によるところが大きく、日本は強すぎる自民党政権に対して、常にノイジーマイノリティが「民主主義」の間違った解釈論を盾に文句を言ってきただけの話で、それに対して自民党が慎重姿勢をとってきた。
故安倍元総理の功績から考え、また国際社会において培ってきた業績と信頼から言っても、日本の立場を高めてきたし、『国葬儀』に反対する理由は無い。
日本の野党とその支持者及びメディアが安易な「安倍ガー」的思考で反対を言ってるだけの話であり、また法的根拠が無いと言っているのも一定の矛盾がある。
繰り返すが、法理論的にも『国葬儀』は可能である。
いや正確に言えば『国葬儀』に関して法整備する必要が無い、と言うことだ。
法的根拠は「内閣法」と「内閣府設置法」に依拠している。
ここで注目しなければいけない点がいくつかある。
『国葬儀』実施に反対の論を張る人々は、『国葬儀』が国事行為だからダメだと言ってるが、ここがそもそもの間違い。また『国葬儀』を日本国憲法に書かれている天皇陛下の「大喪の礼」と同義であるかのような印象操作を行うことで、総理大臣経験者の葬儀を国事行為で行い、あたかも同列に扱うのは民主主義に反する行為だと曰う。そもそも「大喪の礼」は日本国憲法に定めた日本国唯一の国が定める「葬儀」であって、内閣法と内閣府設置法が定める国事行為とは意味合いが異なる。何故なら、日本の国家元首は天皇陛下だから、その意味合いや解釈は異なれど、国が定めるところの「儀式」は天皇陛下唯一のものだ。
正確に言えば、所掌事務としての『国葬儀』は「儀式」ではない。
国事に関してその行政の中心となる内閣が国家行事として定めるところの所掌事務は、閣議決定によって可能であり、それが今回の場合は『国葬儀』であったと言うだけのことだ。つまり『国葬儀』は本来、法的整備を行うようなものではなく、内閣が決定した行政行為の一つでしかない。日本国民は日本国憲法により、内心の自由が担保されている。
公共性、公益性を阻害されない限り、例えば『国葬儀』に参加したければすればいいし、参加したくなければしなければいい。それは既に内閣官房から発表されている通りだ。だから休日にしていない。つまり内閣は強制性を以って国民に『国葬儀』を強いてはいない。ここがポイントだ。
ここで『国葬儀』に反対する人々は、「国民の財産である税金から支出することがおかしい」と言う。
では、今回の内閣の決定が、個人の自由や行動を制限したり、個人の内心を強制するような決定に該当するでだろうか?答えはNOだ。繰り返すが、内閣官房からの発表は場所、日時、無宗教を発表したに過ぎず、故安倍元総理が亡くなったことに対して、国民全員に喪に服せなどと強制してはいない。だから休日にしなかった。休日にすると言うことは、国民に行動の制限を行うことになる。
また、所掌事務に関して税金から支出することを否定するのも、法理論上もおかしい。公共性を担保するのが所掌事務ではあるが、だからと言って公益性を国民全員に保証することは事実上不可能であり、それなら税金を支出するすべての行政行為が国民の財産を侵害する行為になってしまう。公益性とは最適解ということでもあり、受益者は公開している以上国民全員となるが、それを受益するか否か?は国民の側が決めることだ。これが、民主主義だ。
言い換えれば、民主主義とは個人の権利を保証することであり、それの選択権は国家ではなく国民の側にある。議院内閣制は国会と共に責任を負うと共に、国会議員は間接民主主義による議会制民主主義を担う責任がある。
だから選挙によって自分の代わりに立法を行う議員を選択できる制度になっている。それが民主主義だ。
その民主主義で選ばれた国会議員が立法に際し国民の代わりに議論を行って、国家と国民を守護する法治国家の基礎であるところの法律を立法する。最終的な決定は多数決だ。より最適解を得るには多数決に従うしかない。
それが民主主義の正しい在り方だろう。
その民主主義によって選択された内閣が、内閣法及び内閣設置法に基づき所掌事務として『国葬儀』を行うことは、何ら法的制約を受けるものではなく、また『国葬儀』を法整備すること自体は、日本国憲法に定められた「儀式」としての葬儀である「大喪の礼」との矛盾が生じることにもなる。言い換えれば『国葬儀』を法律で定めると、全国会議員が『国葬儀』になってしまう。
つまり、内閣法制局の判断と内閣の決定は実に頭がいい。『国葬儀』を法制化するのではなく、内閣が決定した所掌事務の一つが『国葬儀』であるとした点は、むしろ法的根拠がこれほど明確な決定はない。
繰り返すが、今回の決定は国家が個人の権利を侵害したり個人の行為を制限するものではないのだから、『国葬儀』に際し、献花するのも、喪に服すのも、また参加するのもしないのも「自由」なのだ。何ら強制性を伴うものではない。
この点の議論が抜け落ちて、あたかも『国葬儀』が法制化されていないことが問題かのように論点をすり替えることが問題なのだ。
言い換えれば、『国葬儀』は法制化してはいけないことなのだ。
法律にどシロートの私ですら、その程度は理解できる。今、『国葬儀』反対論者の言ってることは、矛盾だらけだし、結局は、「安倍憎し」がその発想の原点だと言わざるを得ない。
まとめると、
- 今回内閣府が決定した『国葬儀』は内閣が行う所掌事務であり憲法に定める「儀式」ではない
- 『国葬儀』は所掌事務である以上、内閣が決定することに法的に矛盾しない
- 『国葬儀』は所掌事務である以上、税金の支出は法的に矛盾しない
- 『国葬儀』を法制化すると日本国憲法に矛盾する
となり、結論は法的に『国葬儀』は可能である、とならないだろうか?
もう少し踏み込んでみよう。
そもそも、内閣府設置法には、「内閣総理大臣が政府全体の見地から管理することがふさわしい行政事務の円滑な遂行を図ることを任務とする。内閣府は、第一項の任務を遂行するに当たり、内閣官房を助けるものとする」とある。つまり、内閣府設置法は内閣府を設けることの意味を明確化している。
では今回、内閣が決定した『国葬儀』を内閣はどのように位置付けているのだろうか?
「内閣の重要政策に関する基本的な方針に関する企画及び立案並びに総合調整に関する事務」を執り行うのが、内閣の仕事だ。今回の内閣官房はその法的根拠について、外交問題の重要性を挙げている。憲政史上最長の政権であり、環太平洋経済圏や東シナ海、南シナ海の平和と安定に寄与した点、その他外交面での大きな働きを勘案し、世界中の国から弔意を受けている以上、功績のあった総理を日本の国内が評価する意味で諸外国の要人を招いて『国葬儀』を行うことを外交上の重要政策と位置づけた。
また、『国葬儀』を「儀式」と捉えることには一定の疑念が残るものの、内閣が政策遂行に必要な所掌事務の一つと捉えて『国葬儀』を執り行うことに法的な矛盾は無いと考える。
そして、ここがとても重要だし、多くの人が勘違いしているのが、7月22日の内閣官房記者会見において。
- 『国葬儀』は無宗教の形式で行う
- 『国葬儀』の日を休日にはしない
- 『国葬儀』について、国民全員に喪に服することを強制するものではない
と松野官房長官が記者の質問に答えている。
これが、今回の『国葬儀』の法的根拠と、政府方針であり、そこに齟齬が生じることはない。
現在、故安倍元総理の『国葬儀』に反対している人の多くが、もっともらしく日本国憲法に記載の国家が個人の内心に踏み込むなと言っているが、内閣官房は個人の内心の強制性、参加の強制性、国民の行動抑制は一切求めてはいない。要は参加したければすればいいし、喪に服すかどうかは個人が決めればいいと言ってるのだ。
加えて、『国葬儀』があたかも法制化されて決められなければならないような印象操作を野党もメディアも行っている。特にこの急先鋒は立憲民主党の小西ひろゆき議員だ。彼はテレビ出演のおり、『国葬儀』に関する内閣の方針について、吉田茂元首相の際の政府発表文章を取り上げている。
当時の国会質疑において、政府は「国葬」の法的定めは無いとしており、検討は必要としつつも現在まで法制化されていないことを問題視している。
ここに小西議員の矛盾が存在する。政府は、内閣法と内閣設置法に基づく所掌事務として『国葬儀』を行うことを社会の趨勢、故人の業績等を勘案してその都度判断するとしており、小西議員はそれら政府方針に対して法的根拠を切り崩そうとしているのだろうが、既に法的根拠は存在しており、言い換えるなら、内閣府及び内閣法制局は、『国葬儀』の法制化の方がむしろ問題だと言っているのだ。
繰り返すが、多くの『国葬儀』反対派の意見は「法的根拠が無い」と言ってるが、『国葬儀』そのものを法制化「してはならない」というのが内閣法制局の法的な裏づけに基づく政府の考え方なのだ。この点を理解できない人があまりにも多い。
また『国葬儀』を法制化しないからこそ、憲法に抵触しないのだ。言い換えれば『国葬儀』を敢えて法制化しないことによって、憲法遵守義務を守っているのである。
「個人の内心がー!」などと言うのは、これらの法的裏づけの意味合いが理解できてない人たちだ。
加えて、税金を支出することの意味は、内閣府が行う所掌事務である以上、税金から支出するのは当然であり、今回の『国葬儀』は国事行為ではない。この点も、理解していない人が多すぎる。法律を読んでいないのだろうと思う。
日本における葬儀に関わる国事行為の唯一は、天皇陛下崩御の際の『大喪の礼』だけだ。
この点も、内閣官房はきちんと、今回の『国葬儀』は国事行為ではないと言うべきなのだ。
結局、「安倍ガー」の感情論で反対しているだけで、国葬反対派の言い分は矛盾だらけなのだ。
ましてや、無宗教形式で行うことは自民党の岩盤支持層である日本の宗教界を侮蔑する意味で有効だ、などと、的外れも甚だしい言い方をする者まで出てきて、しかもその頭の悪さを支持する人が一定数存在するのもいかがなものかと思う。
今回の内閣の決定は、そんなチンケな発想によるものではない。底が浅いのである。
頭の悪い私ですら、その程度のことは容易に理解できる。
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倉沢 良弦
大学卒業後、20年間のNPO法人勤務を経て独立。個人事業主と会社経営を並行しながら、工業製品の営業、商品開発、企業間マッチング事業を行なってきた。昨年、自身が手がける事業を現在の会社に統合。コラムやブログは企業経営とは別のペンネームで活動中。