新型コロナ狂騒:総括は「誰かを罰して終わり」にすべきでない --- 高梨 雄介

新型コロナウイルス感染症の恐怖を散々煽ってきた新聞のうち何紙かが、宗旨替えをしつつあるようです。

・日本経済新聞 [社説]コロナ医療は特別扱い減らし負担軽く
・朝日新聞 コロナ全数把握、現場限界 各界から見直しの声も政府の「答え」は
・毎日新聞 [社説]コロナで専門家提言 国の対策立て直しが急務

はて、これまでは特別扱いを散々推してきたように思いますが、この宗旨替えは如何なる理由によるものでしょうか。危険だから全数把握を推してきたんですよね。だったら「全数把握ができるような体制整備を」という論調が自然ではありませんか。はてさて急に危険でなくなったということでしょうか。

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呆れた日和見主義ですが、これは別に珍しい事象ではありません。何かの記事で派手に間違えて関係者に大迷惑を及ぼしておきながら、次の日の新聞の片隅に小さく訂正記事を載せて終わりというのはよくある。これは謝罪の仕方としてなかなかに不誠実と思いますが、この態度をぐぐっと拗らせると日和見主義に行き着くように思う。つまり、そういう人たちなんでしょう。

しかし、社説が変わると掲載記事もがらりと変わるのは不思議ですね。感染防御第一義だったころは、感染防御第一義に「?」を付ける事実はなかなか掲載されなかった。新聞記事が一面的な事実でしかないのは当然の理ですが、その傍証がこれからまた一つ積み上がることでしょう。

これと同じことはTV(Web経由のも含みます。)にも言えるのではないですか。筆者はTVの類いを一切観ないため伝え聞きですが、コロナの流行初期に散々危険危険言ってた(肩書きは)専門家の方が、いつの間にか番組からいなくなっていたとか。これには感心しますね。損切りが上手だなと。

これらの話から、新聞やTVは言ったことに責任を取らない傾向が強そうです。そんな奴の言うことを信じるのはいい加減、お止めになったらいかがか。

これからコロナ対策の総括がなされるかもしれません。体感では「狂気と言えるレベルで過剰」でしたが、とりあえずは総括屋の分析を待つしかない。そして、ここで過剰だったという判定が下りたときにどうするか。不安を煽った連中に対する怒りが沸くのは仕方ありませんが、彼らに発言力を与えたのは「民の声」ではありませんでしたか。そしてその「民の声」は、新聞やTVの言うことを盲目的に信じた大人によって形作られたのではありませんでしたか。

新聞やTVが一斉に恐怖を煽っていたときに「これはおかしい」と思って、反証を探したか。流行初期、データが揃い始めたころ、感染防御主義に疑問符を呈していたのはアゴラの池田さんや永江さんくらいだったように思います。そういえば、感染防御主義への疑義を経済主義みたいに捉えて「コロナvs経済」すなわち「命vsカネ」のような対立構造に加工した連中もいたように思う。このすり替えに違和感を抱かなかったか。

こういったことを、全ての大人(成人という意味ではありません。念のため)が省みるべきです。その過程で、新聞やTVとの付き合い方も考え直すべきでしょう。さらに著名人、専門家、有名人らがあの頃何と言っていたか、それについて今何と言っているかを調べれば、その人たちの誠実さが分かります。不誠実な人の言うことはそうだと思って聞くようにした方が良い。そういう人を出演させているTV番組も同様です。

もちろん、総括を経て政治家や専門家に必要な責任を取らせることは肝要です。ただ、「誰か他人の首を切って終わり」ではまた同じ手口で騙されます。それに、他人を変えるより自分を変える方が遙かに簡単。つまり新聞やTVに改善を求めるより、自分が接し方を考え直した方がずっと良い。

それにしても本当に酷い狂騒でした。筆者は僥倖にも早くから「おかしいぞ」と気付けましたが、周囲の圧力が凄くて家族をケアするので精一杯だった。ひとりの大人として、行動制限とマスク着用義務を強いられた若者に対して、忸怩たる思いで一杯です。10代にとっての3年と40代にとっての3年は等価ではない。彼らが失った3年を思うととても合わせる顔がありません。彼らに顔を向けるには、もしかしたら新聞やTVの図太さが必要かもしれないとも思う次第です。

高梨 雄介
上智大学法学部卒業後、市役所入庁。法務関係部門を歴任して数々の例規の起草、審査、紛争解決等に携わる。現在は公共団体職員として勤務の傍ら、放送大学で心理学を専攻中。