安倍元首相殺害事件「統一教会問題」取り上げるのは「犯人の思う壺」論の誤り

安倍晋三元首相の銃撃事件で逮捕された山上徹也容疑者が、母親が宗教団体「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」にのめり込み、多額の献金で破産し、家庭が崩壊したことで恨みを持ち、そのトップを殺害しようとしたが、それが困難だったことから、同団体とつながりがあると思えた安倍氏を襲撃したと供述していると報じられたことを契機に、自民党を中心とする保守系政治家と旧統一教会との関係が、マスコミで、連日大きく取り上げられている。

それに対して、立憲民主党、日本維新の会などは、党所属議員と旧統一教会との関わりを調査し、その結果を公表するなどしているが、自民党は、茂木敏夫幹事長が、

「党とは組織的な関係はないことが確認できた」

と繰り返し、関係が明らかになった議員個人が弁明するだけで、所属議員と旧統一教会との関係を積極的に調査しようとはしない。

マスコミの側も、TBS、日本テレビ等が、ワイドショー等で連日、長時間かけて「旧統一教会と政治の関係」を取り上げているが、フジテレビ、NHKなどは、この問題については、政党や政治家側の対応を取り上げるだけで、積極的に取り上げようとはしない。

当初、連日、「羽鳥慎一のモーニングショー」「大下容子のワイドスクランブル」等で旧統一教会問題を取り上げていたテレビ朝日も、出演者が、

「『政治の力』で旧統一教会に対する捜査が中止された」

と発言して以降、テレ朝のワイドショーでは全く取り上げなくなっている。

このように、この問題をめぐって極端に対応が分かれていることの背景に、「安倍元首相を殺害した犯人の思う壺にしてはならない」、という意見が影響しているように思える。

元自民党副総裁の高村正彦氏は、過去に、統一教会の訴訟代理人を務めたことについて週刊文春の取材を受け、

「勝共連合と統一教会がいいか悪いかは別として、この事件で統一教会が取り上げられることは、テロをやった人の思う壺なので正しいとは思えない」

などと発言した(週刊文春7月28日号)。この意見が、一部で「正論」のように受け止められているようだ。

確かに、意図的に人の命を奪う「殺人行為」は、絶対に許容できないものだ。犯人の意図どおりの結果となり、目的が実現してしまうことで、模倣犯や同様の殺人行為が誘発されるというのであれば、犯人の目的が実現しないよう配慮する必要があるということになる。

しかし、一般的に考えた場合、果たして、犯人が意図したとおりの結果になることが、「犯人の思う壺になる」として、避けるべきことなのだろうか。報道などで、そのような配慮をする必要があるのだろうか。

殺人にも様々なものがある。通り魔殺人や衝動的・偶発的殺人などは、犯人が達成しようとする明確な目的がない場合も多いが、計画的殺人には動機があり、それによって、犯人が実現しようとする目的がある。特に、山上容疑者のように、ただちに逮捕され処罰されることを覚悟して、公然と行われる確信犯的な殺害行為の場合、それによって実現しようとする明確な目的がある。その多くは、被害者側に対する「恨み」である。

「恨み」によって確定的殺意を生じ、逮捕覚悟で殺害に及ぶという典型的な殺人事件の場合、殺害に成功すれば「恨み」を晴らすことになる。そうならないよう犯行で受傷した被害者の救命行為が行われるが、そのかいもなく被害者が死亡した場合には、犯人の目的は、完全に達せられることになる。

しかし、殺人を犯した者に対しては、厳正な刑事処分が行われる。刑事裁判が行われて、情状に応じた刑罰を科す判決が下されることになる。「怨恨による確定的殺意に基づく計画的殺人」に対しては、特に厳しい処罰が行われる。犯人は、長期間、場合によっては一生服役することになる。それによって、犯人の再犯を防ぐだけでなく、同種の犯罪を抑止する「一般予防」も図られるというのが、刑罰権の発動によって犯罪を抑止する国家の基本的作用だ。

それゆえ、恨みによる殺人事件が起き、その結果、犯人の恨みが晴らされたからと言って、他人に恨みを持つ人間が次々と殺人事件を起こすわけでもないし、ただちに同種の行為、模倣犯が誘発されることにはならない。通常、事件の報道において、怨恨が動機であることやその中身の報道が差し控えられることもない。

事件の捜査の中では、そのような動機の要因となった事実が実際にあったのかどうか、動機の裏付け捜査が行われる。公開の法廷で行われる刑事裁判で、その捜査結果が検察官立証の中で公にされる。弁護人にとっても、殺人事件の動機は「重要な情状事実」なので、被疑者・被告人から十分に話を聞いて、弁護人立証を行うことになる。

社会の耳目を集める事件であれば、犯行動機に関連する事実、被害者に関する事実について、詳細な報道が行われることが多い。犯行動機につながった被害者側の行動がセンセーショナルに報道され、それが過熱することもある。それは、時に、死者の名誉を害し、犯人にとっては犯行の目的実現を一層高めることになるが、それが「犯人の思う壺」だと言って、報道が差し控えられることはない。

殺人の動機となった「恨み」が、被害者個人ではなく、被害者が所属する、或いは関連する組織に対して向けられたものである場合、構図は若干複雑になる。その場合、「恨みを晴らす」という動機の中に、当該組織の悪事を「告発」し、その事実を社会に晒すことが含まれることもある。

この場合、まず問題となるのは犯人が「組織に対する恨み」を抱くに至った事情、その恨みを逮捕・処罰を覚悟してまで晴らしたい、当該組織の問題を社会に明らかにしたいと思うだけの「組織側の悪事」が実際にあるのかどうかである。そして、もう一つ重要なことは、そのような「組織に対する恨み」が、なぜ被害者「個人」への殺意に向かったのか、それが、了解可能なものなのかという点である。

それらは、犯行動機に関する重要事実として当該事件の刑事裁判で認定されることになるので、捜査の段階でも十分な証拠収集、事実解明が行われる。社会の耳目を集める事件であれば、それらの点に関して、様々な方法で取材が行われ、裁判で明らかになる事実を先取りする形で報道が行われることになる。

山上容疑者は、旧統一教会という組織に対して恨みを抱き、最も影響力の大きい「旧統一教会の関係者」である安倍元首相を殺害することによって、旧統一教会に対する恨み、その悪事を社会に晒したいという目的で犯行に及んだとみられる。

そのような山上容疑者の犯行動機に関する供述を裏付ける事実があるのかどうか、つまり、「旧統一教会」の山上容疑者自身やその家族に対する「悪事」が実際にあったのか、それがどの程度のものだったのか、捜査によって解明が進められている。また、そのような「旧統一教会への恨み」を安倍元首相に向けた理由が、了解可能なのか、合理性があるのかについても、鑑定留置によって、山上容疑者の精神状態について精神医学に基づく分析が行われている。

犯行動機に関する裏付け捜査として、山上容疑者の「旧統一教会への怨み」の原因となった、「母親が旧統一教会にのめり込んで破産し、家庭が崩壊した事実」が確認される。事件の背景として欺罔的な信者勧誘や家庭を崩壊させるような多額の献金という「反社会性の問題」も重要となる。事件をきっかけに、それらが、犯行動機に関する事実として報道されるのは当然だと言えよう。

そして、山上容疑者の殺意が安倍元首相に向かった原因について、国会議員が、旧統一の教会イベントに参加したり祝電を送ったりすることで、そのような団体に「お墨付き」を与え、入信の勧誘や信者への献金要請をやりやすくしている事実があり、安倍氏が、UPFの国際大会でリモート基調演説をしたことが山上容疑者の安倍氏への殺意につながったとされている。そのような安倍氏の行動が旧統一教会への「お墨付き」に絶大な効果があったとすれば、殺害の動機に関する重要事実だ。

関連団体の国際行事に動画メッセージを送った事実や、その背景にあった旧統一教会と安倍氏との関係も、安倍氏に殺意を向けたことの裏付け捜査の対象となるのは当然だ。これらが事件の捜査で解明されていくだけでなく、それらに関連する事実が、社会の関心事として報道されるのも、事件の社会的、政治的重大性を考えれば当然のことと言える。

山上容疑者の犯行の目的には、単に恨みを晴らすだけではなく、「最も政治的影響力を大きい旧統一教会のシンパであった安倍元首相」を殺害することで、社会の関心を旧統一教会の反社会性と、政権与党である自民党議員との関係に向けようとする「告発的動機」もあったように思える。実際に、事件を機に、その問題がマスコミ等で大きく取り上げられ、相当程度目的を実現している。

高村氏が言う「犯人の思う壺」というのは、このような「告発的動機」の目的が達成されることを問題にしているように思える。しかし、その点について犯人の意図するとおりの結果になったからと言って、犯行自体が正当化されるわけではないし、処罰が軽減されるわけでもない。問題は、山上容疑者が行った「告発」を契機として、そのような問題を、社会がどう受け止め、どう扱うかべきか、それらについてどう判断すべきかということだ。

旧統一教会の欺罔的な入信勧誘や多額の献金要請などが反社会的なものとして報じられていることや、自民党議員への選挙協力などの報道内容が事実に反しているとか評価が間違っているというのであれば、誤りを指摘し、反論すればよいことである。旧統一教会と国会議員との関係を取り上げること自体が、山上容疑者の意図を実現し、「犯人の思う壺」になることを理由に差し控える理由は全くない。