読響×エミリア・ホーヴィング

読響とフィンランドの若手指揮者エミリア・ホーヴィングの共演。

サントリーホールに着いたのが19時2分で、一曲目のラウタヴァーラ「至福の島」は間に合わずロビーで聴く。日本初演となるラウタヴァーラの約12分ほどの曲は、大きな生命潮流を感じさせ、海と空の青さと森の緑が溢れ出すようなイメージ。大きなうねりがドアの外に漏れて、全貌が見えないだけに曲への憧ればかりが強くなった。

拍手のタイミングで客席に入れたが、ピアノコンチェルトのように聴こえたのに舞台にはピアノはなかった。綺麗な長い金髪を後ろでひとつに縛ったホーヴィングは、ゆったりめの黒のジャケットとズボンを着て、どこか妖精のような雰囲気を漂わせている。

プロコフィエフ「ヴァイオリン協奏曲第2番」では三浦文彰さんが登場。プロコフィエフの協奏曲が馥郁としたロマンティックな音楽として立ち現われ、「こんなに素直で心地よい曲だったんだ」と啞然とした。

この曲に時折感じるとげとげしさや知的なエッジが、もっと大きくてまるっとしたものに包み込まれて、麗しく優しい音楽になっている。ホーヴィングの指揮棒は緻密な動きで、作為を感じさせず、譜面を自然体で「乗り移らせている」感じ。努力の痕跡さえ感じられない、ゆりかごの中で聴くような安らかなプロコフィエフだった。ここでもやはり生命潮流ということを感じた。

読響の醸し出す音に、繊細な皮膚感覚があり、湿度や風や香りのようなものも伝わってくる。ロシアとフィンランドは隣国であり、言語や文化の風を超えた自然の霊感が、プロコフィエフのコンチェルトに満ちていた。三浦さんのソロは技巧的な箇所も驚くほど滑らかで、神秘的な艶があり、平和な安らぎがあった。曲終わりに、ホーヴィングと三浦さんが無邪気な子供のようにハグしている姿が可愛らしかった。

女性指揮者、女流指揮者、という言い方がタブーじみたものになり、過剰に神経質になってしまった感覚があるが、指揮者を見なければオケは音を発することが出来ないのだから、それに抗うにせよ何にせよ、女性であるという事実は消すことができない。ホーヴィングの姿からは時々沖澤さんやスカップッチやシモーネを思い出す瞬間があり、クラフト芸のように音の層を編み込んでいく様子は特に沖澤さんと似ている感じがした。

94年生まれなので、誕生日が来ていても28歳。新しい世代の未知な才能を感じたし、フィンランドという国の未曽有の豊饒さにも改めて思うところがあった。「自然」のとらえ方、というと大雑把になるが、ベートーヴェンもブラームスもブルックナーもとどのつまりは大自然の音楽で、神と大地と空と森から霊感を得ている。知的すぎる何かを手放さなければ得られない「大きさ」が、シンフォニーという分野にはあるのではないかと思った。

ホーヴィングの音楽には妖精の気配があり、音楽の中の「妖精の存在を信じる」ということが、私たちには致命的に欠けていると感じた。天と地、神と人の媒介として、妖精は存在しなければならないし、空の青さや森の緑を成り立たせているのも妖精の功績なのだ。バレエの「ラ・シルフィード」では、いたずらな妖精をつかまえようとして羽根をむしった青年が、罰として妖精の死を見せつけられる。それほど精妙で、馬鹿にしてはいけない存在なのに、シンフォニーの中の妖精は無視し続けられ、制度的な鑑賞態度に縛り付けられている。

妖精は信じるものではなく、感じるものなのだろう。後半のシベリウス「交響曲第5番」ではいまだ見たことのない夥しい自然界の登場人物たちが勢ぞろいし、人と妖精が共存するムーミン谷を彷彿させる(!)幻想的なサウンドスコープだった。見るからに屈強で恐れ知らずで、勇気と豪気の塊のようなシベリウスの顔がちらつく。

妥協を知らない冒険家であったシベリウスは、直観と哲学の力を使ってオリジナルな自然体系をシンフォニーで顕した。音楽の中にありきたりのものなどひとつもない。春夏秋冬の美しさと恐ろしさ、自然の優しさと脅威、太陽と月と星々の優雅さ、妖精とともに生きている人間の可愛さと崇高さが、流麗で淡々とした指揮から伝わってきた。巨大で漠としたものが、数学的秩序によって永遠化されている。

音楽が触発する「内観」の巨大な響きに打たれ、自然の一部である自分自身がやがて死すべき存在であることも実感した。

読響の温かさと洞察力、若い指揮者を支える結束力に改めて感動し、ただ一日だけの共演がひたすら惜しく、再度の共演を願うばかりだった。


編集部より:この記事は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」2022年8月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」をご覧ください。