「公共(パブリック)に尽くすこと」の改めての重要性

朝比奈 一郎

【起】長崎にて(龍馬、原爆、、、、、公共(パブリック)への想い)

坂本龍馬が回天の事業を成し遂げるべく亀山社中を立ち上げた場所、長崎。

日本の再生のため、薩長同盟や大政奉還のアレンジから、幕府による長州征伐における戦闘への参加まで、陰に陽に激しく動いて駆け抜けた龍馬の約33年の人生に思いを馳せつつ、山頂の風頭公園から亀山社中、山のふもとの寺町と、急こう配の長崎の坂を家族で歩いた。

私自身は、亀山社中を訪れるのは3回目であったが、家族は初めてで、色々と感ずるところがあったようだ。特に、長崎は坂の町ではあるものの、それでもなぜ、よりによって、こんな山の中腹の不便な場所に龍馬は亀山社中の拠点を構えたのか、と。

私もその昔、初めて訪れた際に同じ感想を抱き、で、今回は登りにならないよう、風頭公園から下るルートを歩いたのだが、炎天下だと、とにかく疲れる。車が入ることも出来ない山中の細い道々に人家がずっと連なっているが、以前に比べ、空き家が物凄く増えている印象だ。無理もない。

途中、かつての亀山焼の窯跡を通過している際に、ふと思った。もしかして、龍馬は亀山の地で空き家対策をしたのではないか、と。日本回天の事業を志しつつ、足下でも出来ることをやっていたのではないかと。

長崎の歴史文化博物館の焼き物のコーナーで、波佐見焼や有田焼などを抑え、もっとも点数も多く、充実した展示となっているのが亀山焼。一時はかなりの隆盛を誇ったようだ。その亀山焼が徐々に廃れて行き、ついに廃窯となったのが慶応元年(1865年)。そして、神戸の海軍塾が廃されて素浪人となった龍馬が長崎に亀山社中を設立したのも慶応元年。亀山焼の衰退や廃窯に伴い、当時も、周囲には恐らく空き家が増えていたことと思う。

山の中腹からの素晴らしい眺望、安くなっていた家賃、などなどの利点も考慮にいれつつ、寂れつつある町に、隊員たちと新たに入居することで、一種の空き家対策・地域活性もしていたのではないか。龍馬の公共(パブリック)への果てない思いに、改めて脱帽の想いだ。

私たちが亀山社中跡周辺で汗をぬぐっていた前々日の8月9日に、岸田総理が現職総理としてはじめて、長崎の原爆資料館を訪問したとのニュースを耳にした。8月9日は、長崎に原爆が投下された日である。「え?、現職総理ではじめて?」と驚いたのが率直なところだ。

現職総理の8月15日の靖国参拝が国内外で物議を醸して久しいが、公共のために尽くし、犠牲になった人たちを敬い、深い弔意をささげることは、当該社会の維持発展のために不可欠である。それが歴史の知恵だ。

こうした公共(パブリック)への気持ちをなくし、自己の利益、損得、興味だけに走る個々人からなる社会は脆い。栄華を極めた古代ローマの衰退、世界の陸上面積の約1/4を支配したとされる大英帝国の没落、一時は経済的に世界のトップに上りつめた戦後日本の最近の凋落。乱暴にまとめれば、すべては、公共(パブリック)への関心をなくし、モラル(倫理/士気)を失った個々人からなる社会の行く末である。

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【承】安倍元総理の国葬

いよいよ1か月を切った安倍元総理の国葬を巡る議論が喧しい。正確には、深い議論というより、単なる好き嫌いに基づく賛否のぶつかり合いだが、各種世論調査を見ると、事件直後よりは、反対の意見が増加している。

もちろん、安倍総理の事績について、色々と意見があること自体は社会として健全である。しかし、大きく見て、日本社会の建て直しや世界の安定のために、これだけ自己を犠牲にして公共(パブリック)のために貢献し、民衆の前でマイクを握っている最中に銃で撃たれて非業の死を遂げた人物を国葬にするのは二階氏ならずとも当たり前ではなかろうか。安倍元総理の衝撃的な死すら、全体としてきちんと悼めない社会に未来はあるのだろうかと、やや暗澹たる気持ちになる。

六重苦とも言われていた日本経済の苦境に際し、「一度お腹壊して辞めた方でしょ」的なシニカルな視線をものともせず、火中の栗を拾う形で、公共(パブリック)のために総理の座につき、リスクをとって超金融緩和政策を推進した安倍氏の度胸は、間違いなく日本をある程度立て直した。何より、ご苦労の末に長期安定政権を実現したことが、どれだけ国益につながったかを考える必要がある。

国際的な周辺環境の変化をいち早く察知し、まさに「世界を俯瞰する外交」を実践して、グローバルにこれだけ活躍した政治家は近年稀である。過去をさかのぼってもそうはいない。TPPの推進やG20での共同声明のとりまとめの際の首脳間での調整などが記憶に残るが、日本の国益を保ちつつ、世界の分断を食い止める方向で尽力された。

であるが故に、トランプ・オバマ両元米国大統領から、ドイツのメルケル元首相、インドのモディ首相、ロシアのプーチン大統領、トルコのエルドアン大統領に至るまで、生前に交流があった互いに仲が良いとは言えない各国首脳たちからこぞって深い弔意が寄せられている。死せる安倍元総理を通じて世界がある程度つながることで、国葬の場が、世界の分断を埋める場にもなり得る。

公共(パブリック)という、ある意味で成果が図りにくい世界。その中でも、もっとも心身を擦り減らす総理という要職を憲政史上最長の期間担ったというだけでも、その貢献は大きい。国や社会のために、多大な犠牲を払って尽力した人の非業の死を、国や社会を挙げて悼むこと。当然のことではなかろうか。

【転】政治家や公務員の劣化?

ここまで、龍馬・原爆被害者や安倍元総理、そして彼らの公共(パブリック)への貢献とそれを社会として尊重することの重要性について述べて来た。一言で言って、日本社会全体が、公共(パブリック)への貢献を敬わない社会になって来ていることを危惧している旨を述べて来た。

公共(パブリック)への貢献・コミットどころか、「国はコロナに際してあれもこれもしてくれない」とばかりに、文句・苦情ばかりを言う社会。あるいは、そうした状況を冷ややかにみて、公共(パブリック)に関わるのは面倒なので、日々、自らのビジネスなど目の前のことにだけ注力して、そうしたことには関わらないという力ある国民たち。日本社会・日本人は、だんだんと極めてまずい方向に進んでしまってはいないだろうか。

こうした中で危惧しているのは、政治家や国家公務員の質の低下だ。苦労の絶えないこうした職務を担っていたエリートたちのよりどころは、社会の構成員、すなわち国民からの尊敬・尊重の眼差しであった。公共(パブリック)への奉仕ということへの敬意が、社会全体で失われつつある中、労働の重さと報酬だけで考えたら政治や行政は、就職先として割に合うわけがない。

例えば、かつては、最強官庁といわれ、母校東大の中でも秀才中の秀才が就職先として選択した財務省(旧大蔵省)だが、どうも最近は、昔に比べてあまり優秀な人材が行っていない印象だ。公務員全体にもその傾向を感じる。国や社会に尽くそうという傾向の強いエリートが多く学んできた東大法学部(文科一類)もその凋落が著しく、経済学部(文科二類)はもとより、最近では文学部等(文科三類)よりも入りやすくなっているそうだ。

政治も同様だ。私の感覚論ではあるが、かつての民主党、政権交代を目指して日本を新しく蘇らせようとしていた頃に、霞が関を飛び出して政治家を目指した人たちは、役所に残っていても次官や局長にまで上り詰めるような優秀な人材が多かった。今、主に自民党から出ている、彼らより少し下の中堅~若手の元国家公務員の政治家たちは、失礼を承知で言えば、役所では出世の限界が見えていたような方々が多い(もちろん、例外もいる)。本論からは逸れるが、私が必要悪として、政治家に二世が多いことを肯定している背景には、こうした事情もある(社会にとって大切な「質の高い政治家」育成のためのルートの確保)。

話を戻すと、こうした政治行政を担う人材の劣化は、公共(パブリック)のために貢献しようという方々をきちんと敬わなくなった社会が生んだ現象ではなかろうか。優秀層は、皆、給料の高い外資系企業に行き、その類稀なる頭脳を公共(パブリック)のために真剣に使うことなく、悪く言えば、日本社会から富を海外に収奪するための片棒を担ぐゲームに気持ちも能力も集中させている。

状況を少し俯瞰的にみて、長期的・構造的に考えても、悪しき民主主義、即ち、公共(パブリック)への貢献を考えない国民からなる民主主義や、わが国に並列的に存在する比較的自由な資本主義が進展すると、当然に社会は劣化していくと思われる。公務に携わろうとするエリートは低減していくのは必然だ。

そのメカニズムは以下のとおりだ。劣化した民主主義下では、国民は自らが社会に貢献すること以上に、政府に「パンとサーカス」を極度に求めるので、財政支出圧力は増す。政治や行政は、その圧力に耐えきれなくなり、財政はどんどん悪化し、経済も良くならない。そうすると、益々、政治や行政で何かをする余地はどんどんなくなり(財政の硬直化に伴う政策の硬直化)、ますます公共の仕事、パブリックサービスは面白くなくなる。

資本主義の進展により、マーケットにおける給与水準と、公務の給与水準の格差がどんどん大きくなる中、更に言えば、成長が極度に鈍化した社会の給与水準とグローバルの給与水準の格差も広がる中、人材は、益々、自国の公共セクターには行かなくなる、という負のスパイラルだ。

【結】令和から昭和への希望

こうして論じていると、日本社会の将来について暗澹たる絶望的な気持ちになってくるが、社会を俯瞰してみると、仄かな希望がないこともない。キーワードは、「令和における、昭和からの学びと実践」だ。最近立て続けに、少し前になるが、話題の映画を3つ見て、そんなことを感じた。

見た映画は、『シン・ウルトラマン』、『峠』、『トップガン・マーベリック』である。乱暴に一言でまとめると、3つとも「公共(パブリック)のために、自己の犠牲を厭わず、結構な無茶をして戦う」人物の物語である。

地球を防衛するという公共サービスに邁進する人たち。その中でも、地球外の生命体でありながら、自己を犠牲にして人類のために公共(パブリック)に命をささげる主人公。そのことを感動的に描いているのが、シン・ウルトラマン。まさに真(シン)のウルトラマンだ。

『峠』は、司馬遼太郎の諸作品の愛読者を自認している筆者が、もっとも好きな作品の一つを映画化したものである。とらわれない自由な思考をする近代の理解者でありながら(開明派)、徳川家に恩義のある譜代大名の家老という立場で、官軍に恭順するか佐幕派としての道を貫徹するかに悩む主人公の河合継之助。彼もまた、長岡藩(当時で言えば「国」)のため、命を捨てて時代に立ち向かう。

100億円を超える興行収入という大ヒットを続けている『トップガン・マーベリック』。一見、乱暴な荒くれものである彼の人生は、命を懸けて国家に報じる、ということに尽きている。フィクションである本作では、「ちょっとあり得ないでしょ」という無茶が事態を動かし、ハッピーエンドに終わる。恐らく、大ヒットの背景には、命を懸けた無茶、というテーマがある。

これら3作品の共通点の一つは、昭和に大ヒットしたテレビ番組、小説、映画へのオマージュであるということだ(トップガンはアメリカの作品なので、「昭和」ということは意識していないだろうが、時代的に)。若い人に言わせれば、こうした「昭和な在り方」は、時代錯誤的な部分は多々あるであろう。現に、若い学生などと『トップガン・マーベリック』についての感想を語りあうと、「正直、理解できません。」という正直な気持ちを吐露する方も少なくない。

しかし、公共(パブリック)のため、「命を懸けて自分が考える任務に取り組む」「自分が社会のためにベストということがあれば、相当な無茶をしてもやり切る」というテーマは、時代を経ても色あせることはないと思うし、逆に、それを冷笑する態度が主流になってしまう社会は危殆に瀕すると思う。そういう社会に未来はない。

余談にはなるが、その点、やはり最近見た『サマーフィルムにのって』という青春映画は、昭和への郷愁を明示的にストーリーに取り込みながら、現代の高校生が、次代に命がけの情熱というものを伝えるという点で非常に将来に期待が持てるものであった。お勧めの映画である。

と、色々書いているうちに夜も更けて来た。というか、夜が明けてしまった。

京セラ創業者の稲盛和夫氏の死去のニュース、旧ソ連でペレストロイカを推進したゴルバチョフ元書記長死去のニュースが飛び込んでくる。昭和は遠くになりにけり、だ。

そんな中私や弊社に何が出来るであろうか。社会の公共(パブリック)への関心を高めるために。

まず、間もなく青山社中キャリアというサービスを、より大々的に打ち出して行くつもりだ(間もなく新たなHPをオープン)。既に、無償ではあるが、青山社中リーダー塾生(弁護士)を、内閣府に紹介して規制改革などに取り組むべく紹介した実績もある。某企業からの依頼を受けて、公共政策の変化を商品やサービスに取り入れるべく、役所とのリエゾンとなる人材(元公務員)も紹介した。

また、今年も10月から、青山社中リーダーシップ・公共政策学校をリニューアルして開講する。公共政策大学院は、日本から次々に姿を消しているのが現状であるが、「リーダーシップ」「変革」ということをキーワードに、私欲全盛の時代に、少しでもくさびを打ち込みたい。毎年のことだが、講師陣は、皆、ほぼ全員が、霞が関出身で、アカデミックにも活躍していて、変革の気持ちに満ちた30~40代である。

最後、宣伝になって恐縮だが、是非、興味を持ってくださった方には受講を考えていただけると幸いである。パブリック(公共)のため、一緒に学べることを期待している。