若い頃の稲盛さんは信長に似た超現実主義者だった

稲盛和夫氏
NHKより

京セラの稲盛和夫さんが亡くなった。ご冥福をお祈りしたい。ネットでも偉大な経営者として絶賛が並んでいるが、私は、出家などして哲学的な言葉を吐いたり、京都商工会議所会頭として業績を上げたり、小沢一郎氏などの支援者などとして政治との関わりを持って日本航空の再建をされたりするようになられたからの稲盛さんも立派だが、若いときの血気あふれる稲盛さんのほうが好きだ。そこでいくつかのエピソードを紹介する。

京セラの実質的な本社が滋賀県蒲生町(東近江市)にあったことがある。京セラのHPなどには出てこないのだが、稲盛さんの私の履歴書には書いてある。1959年4月に京都市中京区西ノ京原町に本社並びに工場を設立されたが、やがて、 名神高速道路八日市インターに近い旧蒲生町(現東近江市)をつくり、本社機能もこちらに移して稲盛さんもこちらにいた。

だから、はじめてフェアチャイルドから注文をとったときは、工場で酒盛りをし、10kmもの道を歩いて、八日市まで行って夜通し飲み明かしたという。

稲盛さんの名前を初めて聞いたのは、通商産業省の国際企業課というところにいたとき、企業の対米投資を担当していて、新聞で稲盛さんのなんともアメリカ的な合理主義に徹した所見を読んで、なにかといえば、社員のためとかばかりいう日本人の精神主義から解放された経営者がいると感心したし、それからしばらくして、ワコールの塚本幸一さんから紹介されてよくお話ししたが、まさにきれきれの経営者だった。

京セラは途中採用が多い。そして、出入りも多い。あるとき、稲盛さんとある幹部がトイレで出くわした。そうしたら、稲盛さんが「君はうちへきてから何年になる?」というので「8年です」と答えたところ「そろそろ考えなあかんな」といわれたので、これは昇進かと喜んだ。そしたら、しばらくしたら、人事部長が来て、「さっき社長とお話しされて退職についてお話しされたでしょう」という。

「そんな馬鹿な。こういわれただけですよ」「いや、それが退職通知なんです」というので怒ったら、「社長は半年間、仕事はせんでいいし、給料は出すから次の準備を自分でしろとおしゃってます」「そんな」「まあ、実は社員持ち株制度で部長の株を評価すると○○億円になります」とかいわれて、すっかり怒る気もなくなったという。上昇期の会社だから、社内で億万長者が続出したのである。

この話を聞いて、私は稲盛さんは織田信長なんだと思った。以下は「令和太閤記 寧々の戦国日記」の一節である(この本では、経営者としての信長・秀吉・家康の人事の差配ぶりをたくさん扱っている)。

令和のみなさんは、自分の会社の社長に、信長さま、秀吉、家康さまの誰がいいかとお考えになってみるといいと思います。

家康さまはひどくケチな人だと皆申します。家来が大きな手柄を立ててもたいして加増されません。そのかわりに、戦死した家臣の遺族などは、とても手厚く厚遇されています。

秀吉は、人情の機微に通じて、上げたり下げたりが上手なのでございます。思いきった抜擢もいたしますが、失敗すると改易など平気でいたします。ところが、しばらく謹慎したり浪人して反省していると、また、チャンスをあげておりました。秀吉や家康さまの人事には不満をもっても謀反するほどのことにはなりません。

ところが、信長さまは気に入ると信じられない抜擢をされますし、秀吉もその恩恵にあずかったわけでございますが、少し期待に応えられなかったり、落ち度がなくても別の人を使いたいと思ったら、突然、お役目や領地を取り上げられたりなさいます。

信長さまは、これまで十分に報いてやったから文句あるか、ということなのですが、やはりクビになったほうは、突然の更迭を恨みます。光秀さまの裏切りに、信長さまは、何が不満だったのかと驚かれたようですが、そのあたりが信長さまならではなのです。

社会貢献ということでは、鹿児島への愛情は格別だった。薩摩の人々は、維新第一の功労者として政府や軍の要職を占め、他県の出身者の怨嗟の声を浴びることになった。「薩摩の大提灯」という言葉があって、成功者のあとに大勢でぞろぞろ付いて引き立ててもらうことをいうほどだ。

だが、そのかわりに、薩摩本国の方は後進県で留まっている。公共機関は、第七高等学校くらいだし、島津斉彬の時代に工業先進地域だった面影もなく、所得は全国で最低クラスである。

そうしたなかで、めずらしくも、稲盛さんは地元への貢献を続けた。国分あたりのテクノポリスに研究所や工場したり、母校である鹿児島大学に稲盛会館を寄付するなどまさに救世主的存在である。

稲盛会館は、安藤忠雄が設計している。もともと安藤が中之島公会堂の保存改修のために考えた卵形のホール構想は、大反響を呼んだが実現しなかった。それを稲盛が現実化させたものである。