加藤清正と黒田官兵衛の城~対照的な熊本と高松

加藤清正はその母親が秀吉の母である大政所なかの姉妹か従姉妹かのようだ。生まれたのは、秀吉と同じ名古屋市内の中村である。小田原遠征の途中に、秀吉は清正と小早川隆景を連れて故郷を訪れ、思い出話をしたり、年貢を免除することをきめたりしている。そのあたりの詳細は、「令和太閤記 寧々の戦国日記」に詳しく書いてある。

ところで、この加藤清正は勇猛な武将で賤ヶ岳の戦い、文禄慶長の役で活躍したが、それとともに、天下の三名城のひとつと言われる熊本城を築き、豊臣の城造りにあって昨日、「築城名人黒田官兵衛が自分のために築いた福岡と中津」で論じた黒田官兵衛と並ぶ存在だ。

そこで、本日は、加藤清正の熊本城と黒田官兵衛の高松とを「日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎(光文社知恵の森文庫)」からの抜粋で比較してみたいと思う。

熊本城は堅固だが殿様は住んでなかった理由

天下の三名城にひとつといわれる熊本城は、西南戦争で西郷軍の五二日にも及ぶ攻撃を跳ね返し、ますます、その名声を不動のものとした。

熊本城がある茶臼山は、白川の右岸にあり、東に坪井川、西に井斧川が流れている。北は丘陵地帯につながっている。白川はかつてもっと北を流れ、熊本城の近くで坪井川と合流していた。これを加藤清正が流路を変更して城下町の南に移し、惣堀として位置づけた。

しかし、城の北部には丘陵一帯が続き、少し距離があるが西には花岡山や金峰山といった標高が高い山地があるのは弱点である。

熊本城 Wikipediaより

もともと隈本と書いたのをこの時改名したのだが、語源は不明。熊本城は、朝鮮での経験も考慮し、複雑に組み合わされた高い石垣をめぐらし、城内に侵入しにくい構造となっている。攻撃は難しいが、城内の面積はあまり十分に取れないのが難点だ。そこで、加藤氏改易のあと細川時代になると、坪井川の対岸の御花畑に御殿を設けて藩主の日常生活もそちらに移した。

宇土城天守を移築したと伝承される現存の宇土櫓以外にも、大小の天守以外に五基もの五階建て櫓があった。宇土櫓は最上階に高欄を備え、松江城の天守閣と同規模だ。本丸御殿も復元されたが熊本地震で大きな被害をこうむった。

建築は下見板張で、黒い城である。火山灰がつもった緩い地盤のために、下部は緩い勾配だが上部では急になる独特のつくりである。

熊本のもうひとつの観光スポットは、藩主別邸の水前寺公園である。東海道五十三次を再現した分かりやすい大名庭園である。

妙法院は日蓮宗で、加藤清正の墓所と銅像がある。北へ向かう街道は小倉をめざすので豊前街道と言われ、東へ向かう街道は大津を通って豊後の佐賀関目指して抜けていく。参勤交代はこのふたつの街道を交互に使用したのが特色だ。

水前寺公園は藩主の別邸で、東海道の風景を再現したりしている。近くには、近代の代表的洋館であるジェーンズ邸もある。各地への街道は、城の西側にある札の辻から発している。

明治10年の西南戦争では、谷干城が率いる政府軍が西郷軍を食い止め、北の田原坂の戦いで政府軍が勝利した。軍都として栄え、旧制五高が置かれ、夏目漱石もここで教えた。

海に浮かんだ高松城

海城や水城といわれるものは多いが、ほとんどが、埋め立てで面影を失っている。だが、高松城は、宇高連絡船の基地だったので、辛うじてその面影が残る。高松駅もターミナル方式で、岡山から徳島行きの直通列車に乗っても、高松から前後逆に逆走する。

高松城を築いたのは、生駒親政だが、黒田如水らの助言を得ている。もともと讃岐の中心は坂出あたりで国府もあった。また、室町時代には宇多津に守護所があった。細川氏は足利一族で、岡崎市郊外から出た。足利尊氏の挙兵で活躍し、四国では阿波、讃岐、土佐の三国に伊予の一部の郡守護を兼ねた。宇多津の守護所はいわば四国の首都だった。

高松城 Wikipediaより(編集部)

しかし、生駒親政は黒田官兵衛の勧めで東と北は海に面し、西は低湿地で、南側の防御だけを考えればよい優れた立地である現在の高松城の位置を選んだ。南の方が標高は高いので、いちばん、本丸が一番低いところにあり防御からいうと不利なのだが、何重にも堀を巡らしたり、栗林公園になっている藩主別邸を要塞として使えるような工夫が凝らされている。これが、福岡城と共通した黒田官兵衛流の真髄だ。

明治初年まであった天守閣は、小倉城を模したもので、三層四階、最上階は張り出した形式である。ただし、小倉城のように破風がないシンプルなものでなく、軒唐破風の出窓や、比翼破風が二重に配されるなど華麗この上ないもので、海に浮かぶ屋形船の趣きもあり、全国を見渡しても最美の天守閣のひとつであった。漆喰で細部まで白く塗られているのは姫路城と同じで、いってみれば「海の白鷺城」だった。

現在は本丸などの石垣のほか二つの櫓が残っているが、着見櫓は宇高連絡船から高松に入港するときのシンボルだった。

加藤清正像 原本京都府勧持院所蔵の複製画