「国葬儀」に反対する人は全体主義なのか?

倉沢 良弦

日本武道館
Wikipediaより

9月27日、安倍元総理の「国葬儀」が決定して以後、国葬儀には法的根拠が無いと言う人たちが数多くいる。マスコミもこぞってこの点を言い、また野党議員の多くがその点を指摘している。

代表的な声を挙げてみよう。

閣議決定だけで時の政権が国葬を決める、国権の最高機関たる国会を無視したこの決め方に反対です。 欠席します。(蓮舫・参議院議員)

内閣府設置法の「国の儀式」は今まで憲法7条による天皇の国事行為のみ。そこに安倍元総理の葬儀を加えるのか。人の「死」は平等です。コロナで亡くなりご葬儀もできない方もいる。また安倍元総理は統一教会と深い関係があったのでは? でも調査もせず全額国費「国葬儀」? 納得いかない。欠席します。(辻元清美・参議院議員)

私は欠席の返信はしない。欠席の返信自体が、内閣で一方的に進める国葬儀に与する行為と考える。不誠実な態度でゴリ押しする国葬をボイコットする(山本太郎・参議院議員)

「思想・良心の自由」に反する「弔意」の押し付けは憲法違反です。 特定の個人の「国葬」を、理由も示さずに行うのは、「法の下の平等」に反します。 憲法と民主主義に反する「国葬」反対の声を広げましょう!(志位和夫・衆議院議員)

これらの声を挙げている人々に共通しているのが、内閣で閣議決定した内閣府の所掌事務は政府が日本国民に強制権を持つものだという理解だ。

まず大前提として内閣府は今回の安倍元総理の「国葬儀」を行うとは言ったが、弔意を強制もしていなければ、国民の行動を制限もしていない。弔意を表するのも、国葬儀に参加するのも自由である。全て国民一人一人の内心の自由を尊重しており、具体的には休日にしなかったことで国民の行動を制限していない。

これは、幾度も私が触れてきたことで、内閣官房の記者会見でも、日時と会場と無宗教形式で行うとしか発表していない。特に国民に弔意を強制する意味で非常に大きいのが、国民の行動を制限するということだろう。国民の行動を制限するとは、国葬儀当日を休日にすることだ。

確かに岸田首相は、安倍元総理の功績について触れてはいるが、国民に弔意を強制したり、国葬儀当日の半旗掲揚も強制していなければ、休日にして喪に服せとも言っていないではないか。

仮に「国葬儀」という言葉に引っかかっていると言うなら、「お別れの会」でも「送る会」でも良い。

また、「国葬儀」に法的根拠が存在していないと言うなら、その点も違うと思えてならない。内閣は内閣府の所掌事務で行うとしているのであり、内閣府設置法や内閣法を読めば、そこに税金を支出したとしても、閣議決定した事務として行うもので、そこに法的な齟齬は無い。

また、吉田茂、佐藤栄作の葬儀を挙げ、その時から内閣が行う葬儀に関しての法的根拠を指摘されてきた。これは葬儀に限らず、「内閣府は、内閣の重要政策に関する内閣の事務を助けることを任務とする。(内閣府設置法第三条)」と記載にある通り、内閣が行う行事(所掌事務)全般について、法的根拠を明確にしている。これは、吉田茂、佐藤栄作両名の葬儀のあり方を問題視した当時の野党が、時の政権の追い落とし目的で政局にするための一手段として講じてきたことに法的根拠を持たせたという意味がある。

言い換えれば、現行の内閣府設置法を作らせたのは、他ならぬ当時の反自民党政党(野党)だったのだ。

次に違和感を感じるのが、政府は繰り返し弔意の強制や国民の行動に制限を加えるものではないと言っているのに、国葬儀の法的根拠云々を言う人は、あたかも政府が弔意や行動を強制しているかのような言い回しをすることだ。彼らの言い分に倣えば、国会審議を経ていないというところが問題なのだと言う。

そもそも法的に言えば内閣の所掌事務に国会承認を必要とはしていないのだが、どうして安倍元総理の国葬儀だけ国会の議決を必要とするのだろう?これは本当に素朴な疑問だ。

彼らの言い分を煎じ詰めれば、日本国は何事であれ内閣が決定したことは、そのまま国民の内心や行動を制限することだと言いたいのだろうか? 日本国憲法のどこにもそのような文言は無いし、刑事事件でも起こさない限り、日本国民は公権力から行動を制限されることはない。それは社会のルールとは別で、個別の施設等で定められたルールは存在する。しかしその全てに法的な裏付けがあり、例えば個別の行事や施設利用に際し適切でないと判断されれば、そこから退去させられる。そこにも、様々な法的根拠が存在する。

今般のコロナ禍においても、国家が国民の行動を制限するには制限する法的根拠が存在するが、例えば感染拡大抑止の施策については、全て「国民へのお願い」ベースだ。飲食店の閉店時間等についても、お願いを守っていただければ、雇用等の助成金で支援しますよ、という形にしている。それらは法的拘束力が無いため、無理やり店舗を開け続けたお店もあるが、そのような店には助成は行われない。

三密を避けることも、マスク着用も、手洗いの推奨も全てお願いでしかない。ただし、各施設でマスクをしない人の入店、入室等を制限するのは、各施設の独自ルールであり、一歩踏み込めばそのルールに従わなければならない。何故なら、施設管理者自体が法的に守られているからだ。

自民党政権に反対する人の多くは、今回の国葬儀が、北朝鮮や中華人民共和国のように国家が号令一下で国民を動かすことが出来る国だと思っているのだろうか?

確かにコロナ禍において外出禁止令に近い形で国民の行動を制限した国は、北朝鮮や中国以外にもある。しかし、それらの国には国民の行動を制限できる法律がある。しかし、日本にはそのような非常事態に際しての国民の私権を制限できる法律が無い。つまり、先進国の中でも最も国民の自由がある、非常に稀有な存在なのだ。

その日本の中にあって、あたかも日本が全体主義国家のような言い回しをする人々は、普段から国家と国民の関係性について、国家は私権制限するものだという観念が染み付いているんじゃないだろうか?とさえ、思いたくなる。それほどに、彼らの言葉は、自由な日本において違和感を感じる。

一例を挙げれば、私自身は社会に差別などあってはならないと思うが、日本社会でマイノリティ保護のために差別的発言や行動を許さない条例を作る自治体が増えてきた。それ自体は批判されることでは無いと思う。ところが、彼らの言葉には、内心ですら差別は許さないと言う雰囲気を感じる。流石にそれは行き過ぎの議論で、個人の内心まで法律や公権力が制限することは、個人の「自由」を抑制する越権行為だろう。

論理の飛躍だと思われるかもしれないが、私は国葬儀に反対する人々の言葉の裏側に、彼らが国家と国民の関係性について、日本人とは思えないような全体主義的発想を感じずにはいられない。

ましてやそれが、税金で生活や政治活動を保障されている国会議員や地方議員であれば尚のこと、危ういものを感じるのだ。

ここでは敢えて触れないが、全体主義は格差と特権階級「しか」産まないことは、歴史が証明している。

反自民党の多くがリベラルを自称するのなら、今回の国葬儀反対の動きに国家が国民の内心や行動を制限するものだと言うような印象操作はしない方が良い。繰り返すが、今回の閣議決定に際し、政府は一言も国民の弔意を強制したり行動を制限したりはしていない。

多くの国民が、日本が全体主義になってしまったかのような発言をする野党議員がいることの方が違和感がある。

倉沢 良弦
大学卒業後、20年間のNPO法人勤務を経て独立。個人事業主と会社経営を並行しながら、工業製品の営業、商品開発、企業間マッチング事業を行なってきた。昨年、自身が手がける事業を現在の会社に統合。個人サイトのコラムやブログは企業経営とは別のペンネームで活動中。