中庸というもの

『論語』の「雍也(ようや)第六の二十九」に、「中庸の徳たるや、其れ至れるかな・・・中庸は道徳の規範として、最高至上である」という孔子の言葉があります。此の中庸という抽象的概念は『論語』の中でも大変重要なキーワードで、煎じ詰めれば『論語』の最も中心となるテーマとも考えられるものです。

中庸とは、平たく言えばバランスのことを指しています。中庸の徳から外れたらば、何事も最終様々な問題が生じてくることになります。「酒極まれば則ち乱れ、楽しみ極まれば則ち悲しむ」(『史記』)--「過ぎたるは猶(なお)及ばざるがごとし」(先進第十一の十六)と孔子が言うように、なにかにつけ度を越してしまうことは良くありません。

『論語』には中庸の大切さに触れた章句が幾つもあります。例えば「質(しつ)、文(ぶん)に勝てば則ち野(や)。文、質に勝てば則ち史(し)。文質彬彬(ひんぴん)として然(しか)る後に君子なり」(雍也第六の十八)もその一つです。孔子曰く、「質朴さが技巧に勝れば粗野になる。技巧が質朴さに勝れば融通の利かない小役人然となってしまう。修養で身につけた外面的美しさと内面の質朴さがほどよく調和しバランスがとれていて、はじめて君子といえる」とのことです。

之に関し安岡正篤先生曰く、「人間は常に質が文よりも勝っていることが望ましい」ということですが、私は必ずしもそうではないと捉えています。表面的に見える姿としては孔子の如く、やはり文質がバランスされていることが大事だと思います。

安岡先生はまた上記に続けられて、「その人に奥深いものがどっしりとあって、そこに若干の表現があればよい」と言われています。文質のバランスが取れているとは、先ずその内実がどっしりとあることが大前提です。飾り立てているだけでは、バランスされないのです。「質が文よりも勝っていること」は、表面に出てこなくても構いません。秘めたるものが内にきちっとあれば、それで良いと私は考えており、飽く迄も表面的には文質彬彬が良い、と思います。

先述のように、バランスを取ることが非常に大事である、とは『論語』に一貫して流れる孔子の教えです。中庸とは、西洋哲学の「正反合:せいはんごう…ヘーゲルの弁証法における概念の発展の三段階。定立・反定立・総合」の合に当たるものだと思います。より高次元での合に達すべく、此の正反合を進む中で一つの妥協点を見出し行くものですから、単に物事の平均値や中間点の類として捉えるものではありません。

孔子を始祖とする儒学では、人間力を高めるために「五常:ごじょう…仁・義・礼・智・信」をバランス良く磨くべしとして、「修己治人:しゅうこちじん…己を修めて人を治む」を実現すべく、当該五点夫々にレベルが高いことを以て徳が高い人物だとされています。君子を目指すには、此の人間力の源泉とも言い得る五常を身に付けて行きながら、中庸を保つことが極めて大事だと思います。之は「言うは易く行うは難し」の至難の業でしょうが、頑張るしかないですね。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2022年9月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。