私は本業の関係で、非常にロジカルに物を考える癖がついている。
私の業界は常に世の中の景気動向に左右されてしまうので、製造業に携わる人は専ら私の説に共感して貰えると思うのだが、「応変自在」な対応が求められてくるものだ。そこには感情論や好き嫌いとは無関係な、無味乾燥な世界が広がっている。市場が必要とするものを、必要とするままに提供することが求められるし、そのように応変自在に対応できる能力が不可欠となる。
また、製造業に限らず、住宅設備関連にしても工場のプラント建設にしても、世の中をひっくり返すような物凄い技術革新は、10年に一度あるか無いかのレベルでしか世の中には現れない。一定程度の技術スキルや製品のスキルがあれば、それで市場は満足し、むしろコスト面を重視する傾向がある。つまり、メーカーがあれこれ技術的なことを解説したって、ユーザーは最終的に従来品との違いと、コストプッシュ型の価格転嫁を念頭に考えている場合がほとんどだ。
つまり、どれほど新製品の素晴らしさを宣伝しても、それは作り手の論理でしかなく、最後は買い手の論理に従うしかない。しかし、市場に製品が投入されて以後、本当に価値ある製品なら、結果を伴うので、そこで初めて、評価されることになる。どのような製品であれ、評価の対象になればそれはそのまま、一つの宣伝効果を生むので新たな市場が開拓される。つまり、新製品で新たな市場を開拓することには非常に高いハードルがある代わりに、一旦市場に受け入れられると、新たなスタンダードとして認知されれば、当分の間、安定的な売上が見込める世界でもある。
これは何も製造業に限ったことではないことは自明で、サービス業でも何でも、市場に投入された反響が次の段階を決めている。
例えば新たな需要は必要に駆られて生まれるものだという点に加えて、何に役に立つか分からないが作ってみたらなかなか良い製品が開発された場合も、どの市場に投入し、どの市場なら新たな需要を生み出すことが出来るか?を、それらのロジックを一つ一つ検討して市場投入の道を模索すれば、自ずと見えてくるものがある。
このような考え方と捉え方でいる私にとって、ロジカルな思考ではないものには、違和感があるし、それが趣味や道楽ならまだしも、営利を目的とする業務として考えた時、あまりに非効率で、あまりに知恵を感じない実例はたくさんある。
その中でも、最も非効率だと感じるのが、旧民主党から現在に連なる自称リベラルと言われる保守層の人たちだ。彼らの思考には生産性が足りない。
仮に効率と生産性を考慮した手法であったなら、今以上に野党の支持率は上がっていなければならず、また国会で与党を烈火の如く追求してきた野党議員が相次いで落選するような恥ずかしい事態には陥っていなかった筈だ。
結論から言えば、彼らはどう考えても、伝統的保守的なやり方にこだわり過ぎているのだ。
本当に政権交代を実現したいなら、有権者から任せてみたいと思ってもらう必要がある。それは当たり前だが、信頼であり、信用だ。この人なら大丈夫と思ってもらえるかどうかだ。その点、政治はマーケティング手法と酷似しているところがあって、好き嫌いや良い悪いではなく、今の時代に合った政治のあり方とは何か?を模索し、実践するところに国民生活をより良いものにしていく政治手法があるはずで、そうでなければ政治とは言えないであろうし、これは歴史と伝統を重んじることとは違うことだ。
歴史と伝統自体は、それはそれで大事にしながら、緩やかに必要なものには変化を加えていくことが大事だ。そこには柔軟性や国民を中心に据えた政治のあり方が問われることでもあるだろう。大事なことは変化を許容することであり、変化を示すことが政治家に求められるものだ。
その意味で、今の保守層の代表格である野党議員とその支持者は、あまりに保守的な政治姿勢に固執し過ぎて、ほとんど時代遅れの感は否めない。
思い返せば、1990年代に入り、日本はいつまでもバブル景気が続かないことを実感し、栄耀栄華は永遠ではなかったことを骨身に染みて実感することになった。その後、日本はデフレ不況に陥る。デフレ不況の日本しか知らない人々にとっては、不況が当たり前の日本にあって、その昔、一万円札を振り回しても週末のタクシーは捕まらないとか、国家公務員よりも上場企業の方が給料が良かったとか、今の若い人たちでは考えられない日本が存在していたことを、想像することすら難しいだろう。バブル崩壊後、一部の業界を除き、日本はデフレ不況に突入したのだが、しかしサプライサイドを中国を中心に構築した製造業は、不景気だと言いながらも好調を維持していた。
確かに日本はデフレ不況下であったのだが、旧民主党政権下と近年のコロナ禍で一部停滞を見せたものの、実は日本のGDPは一度も落ち込んではいない。
製造業は中国を中心にしたデフレ不況に対応したサプライサイドの構築が功を奏したことと、若干の円安傾向にあったことが、かろうじて輸出関連企業の業績を維持してきたことが要因だろう。つまり、産業全体は為替や国内経済の状況を踏まえながらなんとか持ち堪えてきた。問題は、政治が経済に追いついていないことだろう。バブルが崩壊し、国民は自民党政治への諦めが漂い始めた頃、2000年前後にアジア金融危機が起き、立て直しもままならない状況でリーマンショックが追い討ちをかけた。
これら時代の流れを経験した人々は、日本とはこれ以上、儲かり続ける国ではないと思い込んでいる。少子高齢化とデフレ不況の悪循環が、これからも続くと思っているのだ。
そんな時、人はどこに不満の吐口を持っていくだろう?それは政治だ。デフレ不況下における野党の台頭は、実にわかりやすい論理からだ。
「あなたの生活が向上しないのは、賃金が上がらないのは、就職がままならないのは、非正規雇用のままなのは、全て政府が悪いのだ」
「それまでの自民党政治が今の日本を作り上げてしまった。あなたはこれからも自民党に任せるんですか?」
「一度、野党に任せてみてはどうですか?」
日本人の国民性は保守的だと思われがちだが、時代の変化に対応する柔軟性という意味では、私は必ずしも保守的だとは言えないと考えている。そんな日本人が、閉塞感を打破できない自民党に三行半を下し3年間の旧民主党政権を生み出した。
自民党政権が倒れたことは、それまで自民党的なるものへの反発があった人々にとっては、青天の霹靂くらいの出来事だったろう。あの強い自民党が連立だのなんだのといった誤魔化しではなく、真正面から選挙で勝負して負けたのだ。この時、日本国内の自称リベラルと言われる人々は戸惑いの中にあった。私は、この時が自己陶酔型の自称リベラル誕生のきっかけになったと思っている。
バブル期前の日本はリベラルなどという小洒落た言い方ではなく、純粋な本当に純粋な左翼思想に毒された人々が、自民党的なものと対峙してきた。
この頃の反自民党的な思想は、文字通り先の大戦以前から脈々と続く日本の左翼思想の影響下にある人々で、それは法曹界、教育界、政界に浸透している左翼思想そのものだ。つまり、共産主義や社会主義といったイデオロギー中心の体制転覆を目途にする人々であり、またその革命思想への憧憬がある人々が政治活動を扇動してきた。革新と言われるこれらの人々は、より良い世の中を作ることが目的ではなく、革命を革命することが目的なのだ。つまり手段が目的化しており、世の中を変える革命を革命したいだけの人々なのだ。
手段が目的化しているってことは、それはもう最終的なゴールがなんなのか?すら分からなくなっていて、とにかく政権を転覆することを目的にしている。だから、支持率が上がらないのだ。有権者に理想的な国家の有り様を見せるのではなく、とにかく政権交代が目的になっている。
ところが、実際に旧民主党時代、政権を奪取してみて分かったことがある。旧民主党とその支持者は、自分達は革新系の政党だと思っていたのに、蓋を開けてみたら、実は物凄い保守的な国会議員と支持者の集まりだったことに自分達が気づいた。
戦後一度も改正されていない日本国憲法を一言一句変えることを許さず、日米安保体制で新たな世界の軍事バランスを認めようとせず、戦前の日本の体制を維持しようとしている。また、安倍元総理が打ち出した北方領土二島返還も4島一括変換しか認めないし、コロナ禍のような事態になっても、いつまで経っても「コロナ怖い」を煽り、一人残らずPCR検査をやり陽性者をひたすら増やす政策を打ち出し日本人をいつまで経っても引きこもりにさせようとしていて、欧米諸国のようなコロナ後を見据えたあり方を打ち出そうとしない。
つまり、日本国民が次の時代に踏み出したいと思っていても、常にその邪魔をしているのが、保守的な日本共産党、社民党、立憲民主党、公明党といった野党だ。彼らは変わること、変化することを一切許容しない。選挙でいくら票を減らし、議席を減らしても、彼ら自身が保守的で自分達の考えに固執してしまっているので、自分達自身も変化することを恐れている。
思い返せば、第二次安倍政権の時、とにかく反自民、反安倍だけを目的にしてきた野党とその支持者は、モリカケさくらを批判はするが、自民党が打ち出す政策の全てには、ほぼ反論できていない。つまり、モリカケさくら以外に革新的な政策を打ち出す安倍政権を打ち崩すことが出来なかった。彼らは自分達を守り、少ない支持者を維持するための保守的な手段しか思い浮かばなかったからこそ、特に立憲民主党系の議員は、自分達の生きる道を「保守」に決めたのだろう。それしか他に選択肢は無いのだ。
それが、今回の国葬儀論争の背景にもある。野党議員や支持者は、変化を望まないので、今までと違うことをやろうとすることに反発している。彼らの価値観の根底には、今までの自民党には無かった安倍晋三というある種の異端に対しての強烈な拒否反応があるのだ。
野党とその支持者は、これまでの自民党的なるものの枠を取っ払って政治、外交、経済対策を行ってきた安倍晋三に、「それは従来の自民党的なものから逸脱してるじゃないか!」と泣き言を言っているのだ。彼らの常識の範囲を大きく逸脱したのが、安倍晋三だった。それほどの安倍晋三は革新的だったし、だからこそ野党とその支持者を保守的な殻に閉じ込めるパワーがあったのだ。その意味でも、安倍晋三は不世出の宰相だったのだ。
山上容疑者は、旧統一協会と母親に対する個人的な恨みつらみから、ほとんど言いがかりのような理由で安倍元総理を暗殺した。この事件は、全くのとばっちりのような事件であり、何が悪いといって一番悪いのは、言いがかりで安倍元総理を殺害した山上容疑者であって、そこに同情の余地は無い。彼は家庭的には不遇であったろうし、彼が体験した苦労は他人では推し量ることは難しい。だからといって、それが山上容疑者擁護の免罪符にはならない。彼は殺人事件を起こした犯人なのだ。
今回の国葬儀論争では、安倍晋三の功績の正しい評価が不可能だったことと、ガチガチの保守層である野党議員と支持者が安倍晋三を理解できなかったことの表れであり、自分達の理解の外にいる安倍晋三に対して、結局、批判しか出来ない悲しい保守層である野党議員とその支持者が、現実にこの日本に存在していることをもっと多くの人が知るべきなのだ。
だからこそ、「わからない」から旧統一教会問題もモリカケさくらも国葬儀の法的根拠も一つの鍋に入れて、出来上がった物である「安倍憎し、自民党憎し」という料理を先に出しているのだ。こんな馬鹿馬鹿しい話もないが、百歩譲って今の野党を見ると、結果、彼らが自分の殻に閉じこもって、保守的な野党の姿勢を崩そうとしてないことが結局は答えのような気がする。
結論は、こんな保守的な野党とその支持者では、革新的な日本、新しい時代に即応した日本を作ることは不可能だということだ。
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倉沢 良弦
大学卒業後、20年間のNPO法人勤務を経て独立。個人事業主と会社経営を並行しながら、工業製品の営業、商品開発、企業間マッチング事業を行なってきた。昨年、自身が手がける事業を現在の会社に統合。個人サイトのコラムやブログは企業経営とは別のペンネームで活動中。