国論が二分された事を問題視し、国葬儀賛成派の一部からも、プロセスに問題があり、静かに弔意を示せる環境構築が必要だったという声も聞こえてくる。その為に国会決議が必要だったなどと言う意見まである。
しかし、物事の因果関係を考察し、真因を分析すれば、前述の考え方では対策になりえないだろう。
例えば、詳細の国葬儀規定が法文に長々と記載されていたところで、何とでも言えるだろうからだ。それ程今回の決定プロセスは法的に問題なく、司法判断まで下されている事は以前のコラムで述べた。それでも『憲法違反』とまで批判されているのだ、どんな法案を作ろうとも結果は同じだろう。そこが問題では無いのだ。
国論を二分させる程の状態に陥った真の原因を検証していくと『メディアの政府批判目的化』にあると結論できると考えている。その理由を説明しよう。
ノイジーマイノリティと称される先鋭的な活動家は、独自の思想信条を持ち、恐らくその考えを変えることはなく、活動はされるだろうし、民主主義社会においてこの活動を反社会的にならず、暴力的要素など違法行為がない限り、妨げることは出来ない。現状、このマイノリティの声が必要以上に拡大、再生され拡散されている。
しかし、この勢力の声だけで国論を二分にする力など無いのも現実である。
もし、それ程の力があるのなら、それこそ革命は現実性を帯びているだろうし、選挙の様相が根本的に変わるだろう。そうなっていないのは、現時点ではそこまでなのだ。
国葬儀当日、反対デモを喧伝し動員もしたのだろう、その結果が警察発表で500人、野鳥の会調べでは更に少ない。それが現実である。一方で誰に強制されるでもなく(旧統一教会の動員だという根も葉もない話はデマとして)黙って献花を自費で調達し数時間も列に並んだ人数の方が遥かに多いのが現実である。
これはメディアがこれらのマイノリティの声をマジョリティの様に取り扱い、あたかも一般市民の声であり、世論であるかのように誘導し、不都合な事実は報道せず、攻撃材料になる内容であれば裏取りなしに報じる偏向報道により扇動した結果、多数の反対派が実際に形成されたのが現実と考えられる。
マジョリティの思考傾向は、情報環境次第で大きく移り変わるのが現実であり、メディアがこれ程までに偏った情報発信を継続すると、それに大なり小なり誘導されるのは人間社会として致し方ないだろう。
勿論、ネット情報環境の拡大に伴い、自ら情報取得し、自ら思考し、メディアの情報をOne of Them として冷静に対処できる層は増えている。マクロ的にその現象が見てとれるのは、ネット社会と親和的な若者ほど政府批判の声が低く、高齢者ほど批判が精鋭化している傾向だろう。『今どきの若者は』という時代は過去のもので、今は『今どきの年寄りは』という状況なのだ。
では、なぜメディアはこれ程までにノイジーマイノリティの声を殊更取り上げ、あたかも一般国民の声であるかの様な印象操作を繰り返すのだろうか。
その答えは『政府を監視し批判をする事がメディアの使命』という誤った信念ではないだろうか。
一方で国葬儀の対象として議論となる政治家は、間違いなく力を持ったリーダーである。当たり前だろう、誰が見ても愚かな宰相を国葬に相応しいとは感じないだろう。それは細かな基準や規則ではなく、自然発生的に生まれるものだからだ。
確かに強いリーダーであればある程、反対派も先鋭化するだろう。それらの攻撃を受けても、やるべき事を確実に前に進めるのは力のあるリーダーの証拠であり、選挙という民意は答えを出すのだ。これを独裁と揶揄するのは間違っている。1回や2回ではなく複数回の選挙という洗礼をクリアしているのは国民が望む強いリーダーだからだ。実際に、毎年首相が交代する状況に対して強いリーダーが嘱望されていたのがその証拠である。
こうなると強いリーダーの存在は、政府を監視・批判する使命を持ったメディアにとっては不倶戴天の敵となり、手段を択ばず攻撃を繰り返し『アベガー』を産み出した。その流れで先鋭化したマイノリティを担ぎ出す選択をするのは自然だろう。
その結果、メディアの情報を真とする思考を持つ人間が、その情報が極左的な主張である背景も理解できず、盲目的に同調し、分断を生み出す。これはメディアによる扇動に他ならないのだ。
それだけの力を現時点ではメディアは持っている。ジャーナリズム精神がまだ生きていれば、真実を追求し、物事には是々非々で検証し、多様な意見を提示するのがメディアの使命の筈であり、それなら分断は生まれ難いだろう。
そもそも現在の政界の構造を冷静に見ると、与党である自民党の政策は、保守的な政策から極めてリベラル的な政策までウイングが広範囲に渡っている。それを、今までの感覚で政府攻撃を目的化させてしまうと、自然と極左化するのだろう。是々非々で語れず、反対の対抗軸を作るのは、極左化でないと形成できないからだ。そして坊主難けりゃ袈裟まで憎い状態で、『アベガー』と称される、『安部が安倍である限り許さない、たたっ切ってやる』という理不尽な感情論に支配されてしまうのだろう。
だからこそ、本来は個々に論理的に是々非々で向かい合う必要がある。そのことに気付かないメディアは役割が失われるだろう。歴史的分岐点にメディアは立っているのだ。
その様に歴史が動く時代環境において、個々人の責任は自ずと高くなるだろう。自分の力で情報を取得し、分析検証し、自分の考えとして軸足をはっきりとさせる責任があるのだ。
かつては民主主義が浸透する条件として教育の浸透などの必要性が求められてきたが、これからの時代は、最低限の教育だけでなく、個々人が情報力を高め、責任を持った意思決定と意思表明が出来る力を養う必要がある。そうなっていけば、流石にメディアもバカでは無いだろう、政府批判に明け暮れ左傾化するのではなく、自然と是々非々に対応できる様に近付くだろう。なれなければ消滅するだけだから。
その結果、個々の思想信条は多様であるのは当然として、批判や誹謗中傷ではない健全な議論がたたかわされる環境に近付けるべきなのだ。