あの事件から三か月がたったが、安倍首相なきあとの日本は、迷走を始めており憂慮に堪えない。とくに日本の国際的地位をジャパン・アズ・ナンバーワンの時代においてすら想像できなかった高みに持ち上げた外交の成果が継承されるかどうかも曖昧になっている現状は、『安倍晋三を殺したアベガーは安倍レガシーの抹消を狙う』で訴えたとおりだ。
それとともに、憂慮しているのは、保守派の内部での「志」と「現実感覚」の乖離である。安倍さんは、非常に保守的な信条を持っていたが、決して実利を軽視したり、国粋主義に走ったり、むやみに敵をつくらなかったし、保守派のなかの内ゲバも快く思っていなかった。
たとえば、総裁選挙では、TPPには慎重だったが就任するや推進で割り切ったし、憲法改正もリベラルな人や公明党でも反対しにくいような三項目に絞ったし、保守派の猛反対を押し切って習近平を国賓として招待したし、プーチンとも粘り強く交渉したし、部分的に安倍氏の主張と相容れないからといって保守派の内輪もめに加担して遠ざけることもなかった。
だからこそ、国民の高い支持を確保でき、そのお陰で、保守派もすべてに満足でないにしても、自分たちの主張のかなりを実現できたのである。
また、国際的な基準において歴史修正主義者だとか、極右とかいわれて、キワモノ扱いされることもなかったし、アメリカのような、極端な保守と前衛的リベラルの二派による分断、ヨーロッパのように支持率で20%を超えるような勢力を極右扱いする愚劣を回避しているのである。
ところが、どうも最近の動向を見ると、保守派の間の罵り合いが激化し、さらには、足の引っ張り合いも目立つ。
日本の保守派が引き続き力を保持し、安倍政権下で得たような地位を維持するためには、フランスの保守派にとってド・ゴールがいたらどうしただろうというのが、保守派を統合するかすがいになっているような状況をつくることが肝要だろう。
安倍さんの柔軟性の原点が何かだが、それは長州の伝統だと思う。「安倍さんはなぜリベラルに嫌われたのか」もそのあたりは説明したのだが、私は水戸と長州の違いだと思う。水戸は尊皇攘夷といった思想そのものに殉じることをもって潔しとするのだが、長州はそれでもって何を実現するかを考える。
だから、攘夷を唱え実行する一方、海外に眼を向け続けたし、明治の文明開化の主役にもなった。それに対して水戸は内紛で殺し合い疲弊し維新が実現したときは、人材もほとんど残っていなかった。
その長州の近代のカリスマだったのは、天保時代の家老・村田清風であるが、残念ながらあまり知られていないので、「日本を超一流国にする長州変革のDNA(Kindle版が購入可能) 」(双葉新書)からその一部を紹介しておく。
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長州藩の「天保の大改革」を主導した村田清風は、高齢や下関の越荷方の成功による幕府との軋轢などによって藩政から身を引いた後、周布政之助に請われて再び藩政に参画するが、安政二年(1855年)、73歳で死去した。
村田の改革が長州藩にもたらした成果の最大のものは、もちろん、借財が銀八万貫にも達していた藩財政の再建だが、見逃してはならないのが教育の普及に努めたことである。藩校明倫館を拡大し、藩士への教育に従来以上に重きを置き、足軽に至るまで教育の充実を図っただけでなく、藩士以外の庶民層への教育にも力を入れている。藩政から離れ、生家で隠居していた時期には、三隅山荘に私塾尊聖堂を開いて後進の指導に当たり、維新の志士たちにも影響を与えた。
村田は先進的な知識と意識の持ち主であり、激しい国防意識を抱いていた。幕府政治の衰乱と西洋列強のアジア進出という状況から、早晩、日本は戦争に巻き込まれると予測していた。そして、戦争が起こったときには、長州一藩をもってしても勝ち抜いて祖国を護持し、国威を海外に宣揚すべしとの信念のもと、村田のもとに集まる藩士たちに予想されうる戦についての話を繰り返し語ったという。そのため、若い藩士たちは村田のことを陰で「いくさ爺さん」と呼んでいたらしい。
こうした村田の国防意識は、隠居時代にまとめられた著作のなかの一つ『海防糸口』にまとめられているが、村田にとって国防は思想にとどまらず、兵器や兵制の近代化に取り組むなど、実践も伴っていた。萩近郊の羽賀台で藩士1万4000人を動員して大軍事演習を行ったのは、村田の危機意識のあらわれといえるだろう。
「来て見れば 聞くより低し 富士の山 釈迦や孔子も かくやあらん」は村田の遺した歌だが、当時の教育、道徳の中心だった仏教、儒教の盲信的崇拝を否定し、国の独立独歩を示唆した村田の思想がよくあらわれた歌だ。
村田の国防意識は長州藩改革派の尊皇攘夷思想の基盤になったといってもいい。長州藩の攘夷はその過激さから現実を認識しない無謀な思想と誤解されがちだが、海外列強のいいなりにはならないという国防意識がその根底にあり、それは明らかに村田の思想が引き継がれたものなのだ。
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