山際氏の記憶に残らない会合:会議好きが日本の生産性の低さの原因?

山際氏がついに大臣の座から降りました。私の8月27日付ブログにこういう一節があったのですが、あえてもう一度、コピペします。

「政治家の『記憶にございません』は常套句でありますが、山際経済再生大臣の旧統一教会に絡む記者会見で2016年、19年に同団体関係のイベントに参加したことを『しっかりとは自分自身でも覚えていない』と述べたことに私はのけぞりました。

この答えには3つの可能性しかありません。ご本人が認知症か、仕事をいい加減にやってきたか、ヤバいと思って隠し通しているか、です。3番目のヤバいという訳ではなさそうで、2番目の仕事を惰性でやってきたのではないでしょうかね?私は仕事だけではなく人生を一生懸命に歩んできたのでかなりの記憶はあります。ましてや誰とどこでどうしたかぐらいは普通分かるものです。となれば任命責任が問われますよ、岸田さん。

今、読み返してみれば悪くない指摘だったと思います。山際氏辞任に関するインタビューの一節では「何か深い関係があったわけではないので、説明ができなかったのは事実。私自身は20年間、政治活動をやってきた。数千や数万の会合には出ていると思う。それを全部覚えているほうが自然ではない。しかし、もちろんそういった会合の中で、思い入れのあった会合や、重要だと思って記憶している会合はある」と述べ、万単位の会議に出席しているので全部覚えられないと述べているのが印象的でした。

山際大臣 NHKより

日本人は会議好きであります。何故か、といえば合議制の社会だからです。会議に出席する人の中で強い意向をもっている人はごくわずかであとは「出席することに意義あり」「一応、聞いておかなくちゃ」「部内を代表して」という感じでざっくり8割の人は受動的参加者です。

発言をするわけでもないので後で議事録を見れば無駄な時間を過ごす必要はないのですが、日本人は会議に呼ばれることに一定のプライドを持っているところもあります。「会議に行ってくる」というのは格好いいことにすら思っている節があるのです。また最新の討議や情報がそこで繰り広げられることもあり、「会議、どうだった?」が部内に戻ってきた参加者への一言目でしょう。

テレビで政府や政府関連の会議のシーンが頻繁に出てきますが、あれだけの会議出席者の中で発言する人はごくわずか。とすれば山際氏も「壁の花」ならぬ「会議椅子の像」だったわけです。それも数万回に渡って。これって人生の中でどれぐらい時間を費やしているのでしょうか?仮に2万回の会議に一回当たり1時間出席していたら2万時間、つまり833日なので人生の2年分以上を「会議椅子の像」として費やしたわけです。ご苦労なことです。

私は昔から大の会議嫌いです。インタレストもない人間が会議をしてもしょうがないのでキーパーソンからの聞き取りや個別折衝で済ませます。今の時代はメールやスラックなどもありですね。最近はNPOの会議は月に一度ありますが、業務の会議は過去10年で数えるほどしかありません。なので、逆に会議した内容はある程度覚えているのです。それこそ、30年前に以前勤めていたゼネコン時代にあったごくわずかの会議経験も覚えています。

私の会議嫌いの背中を押したのは25年ぐらい前にやった大手会計会社との税務戦略会議でした。会計会社の担当が大風呂敷を広げて「社内専門家」を5-6人集めて「あぁでもない、こうでもない」という議論を数時間やったのです。議論なので結論は出ていません。が、後日100万円相当の請求書が来て「ふざけるな」と思ったのです。不毛の会議に100万円です。

また、当時の社長が社内会議の際に「お前ら、会議に出て一言もしゃべらないなら出て行け。この会議でどれだけの給与額になるのかわかっているのか」と活を入れたのです。その通りなんですね。

会議には2通りがあります。意図した方向にするために参加者の同意を得ること、もう一つはあるテーマについて「どうしようか」と議論する場合です。前者のケースが多いと思うのですが、これは冒頭申し上げたように自分も参加させてもらって説明を聞いたというプライドと事実が重要なのです。会議の席で了承というのと議事録が廻ってきて「なんでこうなるんだ」と怒りを見せるのでは大違いです。とても日本的な共同参加意識です。

いわゆる謝罪関係の会議ならば「つるし上げ」をしに行くわけです。誰か一人が声を上げれば「そうだ、そうだ!」と勢いづき、ひな壇に座る人は頭を垂れて陳謝する、そのざまをみて留飲を下げるわけです。

ところで習近平氏の3期目が決まり、上海党委書記の李強氏が首相になります。上海市民にとってはコロナ封鎖で嫌な思いをした相手です。街の人へのインタビューは「上が決めたことだから…」としゃべりにくそうでした。

この「上が決める」というのは中国だけではなく、北米も往々してそうです。「上とは決める者」なのです。北米に30年以上いて下からの提案というのはあまり聞いたことがないのです。なので日本式の会議ももちろんないです。「決める」ということはそれに精通し、かつ、クレバーでなくてはいけません。「あの人は賢いねぇ」と言われるには正しい選択をし続けることであり、その選択は全体にとってメリットがある道を進む決定という意味でもあります。

日本の労働生産性が低いとされますが会議好きのデメリットもあるのかもしれません。逆に言えば上に立つ者がよろよろしているともいえます。岸田さんは典型的な人で自分にポリシーがないから専門家の意見を聞くのですが、専門家も右から左までずらっといるのでそれぞれ聞いてうなずいてしまったら聞いた方の負けなのです。何をしたいか、リーダーに骨太のポリシーがあれば会議は今の半分とか1/3に減らせると思います。

日本的な共同決議は共同体意識に基づいた民主的で関係者の利害関係をよく吸い上げた仕組みであり良い面も多々あります。が、いかんせん、多数のインタレストを吸い上げるということは判断が中庸になりがちとなり、尖ったものにならない点に於いてインパクトが小さい「弱い決定」となりやすいこともこれまた事実ではないかと思います。

もっとも、会議の責任者がいないのもまた日本の特徴で議長がまとめ上げて結論を引き出す能力が十分備わっているのかな、と思う時もあります。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2022年10月26日の記事より転載させていただきました。

会社経営者
ブルーツリーマネージメント社 社長 
カナダで不動産ビジネスをして25年、不動産や起業実務を踏まえた上で世界の中の日本を考え、書き綴っています。ブログは365日切れ目なく経済、マネー、社会、政治など様々なトピックをズバッと斬っています。分かりやすいブログを目指しています。