2パターンあるトロッコ問題のちがいを考える

有名なトロッコ問題には、概ね2つのパターンがある。

パターン1

ブレーキの壊れたトロッコが猛スピードで暴走しており、その先には5人の作業員がいる。

放っておくと5人全員が死亡する。

あなたの手元には線路を切り替えるレバーがあり、レバーを引いて線路を切り替えれば5人は助かる。

しかし、切り替えた線路の先には1人の作業員がいるので、彼が死亡してしまう。

あなたは、レバーを引いて1人を犠牲にして5人を助けるか?

パターン2

ブレーキが壊れたトロッコが猛スピードで暴走し、その先に5人の作業員がいる。

トロッコが通過する線路の上には歩道橋があり、歩道橋の上には太った男がいる。

もし、太った男を歩道橋から突き落とせばトロッコは脱線して5人の作業員は助かる。

あなたは、太った男を突き落ちして、1人を犠牲にして5人を助けるか?

マイケルサンデル教授のハーバードの白熱教室を見ていると、パターン1だとレバーを引くという生徒が半分くらい(もう少し少ないか)いるが、パターン2だと太った男を突き落とすという生徒はほとんどいない。

マイケル・ジョゼフ・サンデル・ハーバード大学教授 同大学HPより トロッコ問題自体はフィリッパ・フットが提起した問題。

1人の命を犠牲にして5人の命を助けるというのは、パターン1もパターン2も同じだ。

レバーは引くけど太った男は突き落とせないという人が多いのはなぜだろう?

太った男を突き落とすのは殺人だという意見もあるだろう。

しかし、レバーを引くのも犠牲になる作業員に対しては殺人だ。

1人の作業員の前にある爆弾のスイッチを押すのと同じだ。

この問題には、人間の「経験的認識」と「分析的認識」が関わっていると、私は考えている。

具体例を挙げよう。

ウクライナのキーウにミサイル攻撃があり100人が犠牲になったというニュースをあなたが聞いたとしよう。

痛々しい話で心を痛めるに違いない。

次に、マリアちゃんという1歳の女の子が倒れている映像が流れてきたとしよう。

きっと、あなたは「100人が犠牲になった」というニュースに接した時より、倒れている1歳のマリアちゃんの映像を見たときの方が遙かに心を痛めるのではないだろうか?

マリアちゃんの映像はダイレクトに私たちの心に訴えかけてくる「経験的認識」だ。

1歳の子どもを持つ人たちは自分の子どもを連想するだろうし、子どもがいない人でも公園で遊んでいる無邪気な1歳の幼子を想像するだろう。

つまり、私たちは自分の経験値からダイレクトに感情を揺さぶられるのだ。

それに対し「100人が犠牲になった」というのは一種の情報だ。

「100人が犠牲になった」という情報から、100人の人々が倒れている姿をリアルに想像するのは難しい。

まさに、情報を分析して頭の中にリアルな映像を作り出さないと、マリアちゃんのケースのようにダイレクトに感情を揺さぶられることはない。

トロッコ問題に戻ろう。

レバーを引くという行為は「分析的認識」に近く、太った男を突き落とすという行為は「経験的認識」に近いと考えることができる。

太った男の姿形を想像し、自分の両手で歩道橋から突き落とすことを想像すると、多くの人はゾッとするだろう。

それに対し、レバーを引くという行為によって「抽象的な存在である1人の作業員」が後で犠牲になるというのは「1人が犠牲になった」というニュースを聞いたときに近い。

トロッコ問題には正解はない。

ただ、上記のような「経験的認識」と「分析的認識」というツールを用いると、ケース1ではレバーを引くけどケース2では突き落とさないという人が多いことの(一応の)根拠にはなると考えるが、いかがだろう?


編集部より:この記事は弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2022年10月26日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。