旧統一教会問題を与野党協議することの愚策

erhui1979

自民党与党は、立憲民主党の申し入れに対して、正面から突っぱねればいいのだ。

実際、立憲民主党が提案しようとしている旧統一教会の被害者救済法案に関しては、憲法上も民法上も宗教法人法上も無理があるだろう。与党案が示す通り、消費者契約法の更なる改正は、旧統一教会問題のみならず半ば無法地帯と化している18成人年齢を利用した詐欺犯罪の抑制のためにも必要だと考える。

ただ、宗教法人法の改正を含む法人に対しての個人献金を焦点にした、法改正は非常にハードルが高い。

この点にメスを入れることは、そもそも憲法違反となるだろう。

与野党が旧統一教会被害者救済法案で協議継続 特別補助制度など焦点

与野党が旧統一教会被害者救済法案で協議継続 特別補助制度など焦点 | 毎日新聞
 自民、公明、立憲民主、日本維新の会の4党は4日、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の被害者救済対策を検討する与野党協議会の第5回会合を国会内で開いた。高額献金を規制する新法について結論が出ず、協議を継続する。

これらの点から見ても、立憲民主党は相変わらず、4%の支持層のための愚策を繰り返している。

NHKより

本当に旧統一教会問題を取り上げるなら、創価学会と公明党の関係性にもメスを入れなければならず、それは献金問題や強引な勧誘手法ではなく、政教分離問題としてだ。そもそも、創価学会に限らず急速に信者数を伸ばしてきた新宗教全体に言えることは、自分達が正しいと信じる教えを政治の世界に盛り込もうと言うものだ。

確かに、宗教である以上、世のため人のためにその信仰は如何にあるべきか?を問うのが本来の姿であるに関わらず、創価学会や幸福の科学のように、正面から政治の世界に教祖や団体代表の教えを盛り込もうとする団体が多い。

彼らの言い分の大半は、民主的国家形成において不必要であり、国家の有り様に特定の考え方を持った団体がその行く末を左右するようなことがあってはならない。それは民主主義の根幹を揺るがす事態だ。創価学会も幸福の科学も、他の宗教団体も、帰するところは自分達の教えの国教化に他ならない。

これら宗教団体は、莫大な資金力を獲得すればするほど、自分達の学校を作りたがる。つまり宗教のエリートの育成だ。そうやって原理主義化させることで、民衆を動かす力を得て、終局的には国教化そうとする。彼らの目標は他ならないキリスト教だ。

そして、それはやはり健全な国家運営のあり方とは言えないだろう。

日本の天皇家の祭祀のあり方も特定の宗教に根ざしているではないか?と言うが、そもそも天皇家の歴史は2500年もの長きにわたり、しかも古い神道形式に則った祭祀に、政治、教育、日常生活までもその形式を押し付けたり、あるいはその教えを教理としてエリートを育成したり民衆を洗脳する意図は無い。あくまで、古式に則った祭式を執り行っているに過ぎない。

では、国家が天皇家の行事の折に行われる祭祀、祭式を国民に強制しているだろうか?答えはNOだ。

つまり野党の主張は、これら日本における宗教のあり方についての認識が弱いのではないか?と思えてならない。

今回、宗教法人法の改正も視野に入れた宗教団体信者の高額献金に関する新法など、個人の思想信条の自由を侵害する法律であり、断じて容認してはならない。

立憲民主党をはじめ各野党は、憲法改正して緊急事態条項を盛り込むことは、自民党一強支配の構図が国民を自民党の思惑通りの日本に扇動するかのような物言いをするが、むしろ、立憲民主党の言う高額献金に対する新法を制定することの方が、はるかに国民の内心に踏み込んでいることになる。
これは大いなる矛盾だ。

なんでも反対の野党とその支持者は、自分達の矛盾に気づいていない。

その最たるものがあいちトリエンナーレの『表現の不自由展』だろう。国内の在日外国人や他国の日本批判を繰り返す国向けのポピュリズムに彩られたこの美術展は、国内に大きな論争を生んだが、そもそも、反日であることに拘泥した活動家の行う美術展でさえ、平穏無事ではないが行われた。愛知県知事を筆頭に愛知県もそれを容認するどころか、むしろ結構なものとして鑑賞を推奨したほどだ。

その根本は、「表現の自由」という憲法の根幹、個人の思想信条の自由を最大限に尊重したものであり、実は「表現の不自由」さを題材にすることで、憲法に定められた個人の人権に対するアイロニーになっている。つまり、『表現の不自由展』を企画、開催した連中はその意図が既に憲法の精神に根ざしていて、自分達の大嫌いな日本国でしかこれらの展示が認められないと言う矛盾を自己表現している。

『表現の不自由展』に関わった連中は、残念だが、こんな簡単な理屈を理解してないように思う。

同じことを、今回の立憲民主党が言う高額献金に関しての新法について与野党協議が決裂したら、内閣の不信任案を出すという言い分に感じるのだ。立憲民主党の泉代表が言うように、個人の高額献金を規制するような新法は、それ自体が個人の内心に踏み込むことになり、立派な憲法違反だ。では泉代表は改憲論者だと言うことになる。

つまり立憲民主党が政権をとると、国民の内心を国家が規制する社会を作ろうとしていることになる。これは立派な憲法違反であり、共産主義的思考でしかない。

これは非常に危険な思考なのだ。

彼らは自分達をリベラル政党だと主張しているが、言ってることは真逆で、統制された社会の実現を目指している。それのどこに民主主義が存在していると言えるのだろう?

私は、たとえ内閣不信任案提出を振りかざされても、断じて、個人の人権を否定する立憲民主党とそれに与する野党の主張に乗るべきではないと考える。