腎臓売買は許されるか?

5つの臓器(心臓、肝臓、膵臓、腎臓×2)を1つずつ患っている人が5人いるとしよう。

彼ら彼女らは、移植を受けないと全員死んでしまう。

すべての臓器が健康な1人から5つの臓器を取り出して移植すれば、5人の命は助かるが(臓器を取られた)健康だった1人は死亡する。

1人を犠牲にして5人を救うべきかという問題だ。

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功利主義的立場を徹底すれば、1人の犠牲で5人が助かるのだから許されるということになりそうだ。

リバタリアニズムの立場からすれば、各人は自己所有権を持っているので、無理やり犠牲にすることはできないだろう。

しかし、犠牲になる人が自由意思で死を選ぶのであれば許されることになりそうだが・・・自由意思をもってしても自己の生命を失わしめることまでは否定するのかもしれない。

人間には腎臓が2つあり、1つを失っても健康には影響はない。

一定の親族間での腎臓移植は日本でも認められている。

しかし、腎臓売買は、日本でも諸外国でも認められていない。

親族間の移植は認められているのに、売買が認められないというのはどうしてか?

大金で腎臓を買うことができる「金持ち優遇」だという批判がある。

しかし、「金持ち優遇」がいけないというのであれば、世界的大富豪が受けることのできる最高度の医療と途上国の人々が受けられる医療との格差が現実に存在し、認められていることの説明がつかなくなる。

また、お金に窮した人が苦し紛れに腎臓を売ることになるので、一種の「搾取」だとする批判もある。

この批判に対しては、お金に窮した人が強制執行で財産を取られることとの整合性がとれないとの反論がある。

人によっては家土地を取られるくらいなら腎臓一つを提供した方がマシだと思う人もいるだろう。

お金に窮した人の選択権を狭めるべきではないという反論だ。

腎臓売買を支持するおそらく最も強力な根拠は「正当防衛」と考える説だ。

自分が死に瀕している時に、腎臓を売ってもいいという人がいたとしよう。

禁止するという法律を破ってでも自分の命を守るのは、一種の「正当防衛」だと説く。

腎臓の機能が低下したために、人工透析をしている人たちが世の中にはたくさんいる。

1回4~5時間かかり週に3回行わねばならないそうだ。

私は、昔、人工透析をしなければならなくなった小学生の書いた文章を見て涙を抑えることができなかった。

経済学の新しい分野である「マーケットデザイン」では、次のような解決方法を提示している。

1人の移植が必要な患者に3人の親族がいるとする。

3人とも適合しないケースがある。

このような患者と家族を100組作れば、100人の患者と300人のドナー候補者(それぞれの家族たち)ができて、適合する可能性が飛躍的に高まると説く。

私個人は、厳格なルールを設ければ「腎臓売買」は許されると考える。

提供者に完全な判断能力があり、きちんとした医療施設で適式な医療行為として行われるのであれば、腎臓不全で苦しむ多くの人々を救うことができるからだ。

ちなみに、功利主義的立場からもリバタリアニズムの立場からも、腎臓売買は許されることになるだろう。

功利主義的立場からすれば、1人の病人が元気になり1人はお金を貰うので双方ハッピーとなり社会全体の効用が上がるからだ。

自己所有権を認めるリバタリアニズムであれば、自由意思による売買は「禁止する方がおかしい」ということになりそうだ。

カントの立場からすれば腎臓売買は禁止すべきだということになるが、本稿ではカントの考えは省略する。


編集部より:この記事は弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2022年11月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。