宗教の信者は誰を救いたいのか?

現在の国会における旧統一教会問題の追求を見ていて、政治家ってのは本当に宗教の本質を知らないと思えてならない。

旧統一教会に限らず、新興宗教の本質は、お金儲けである。いかにたくさんのお金を集め、いかに豪奢な建物を建て、いかに政治家や芸能人や企業経営者と繋がるかを互いに競い合っているに過ぎない。

各団体の敬虔な信者に聞けば、異口同音に「そんなことはない。高邁な理想実現を目指している」と言うだろう。もちろん、それであるが故の宗教であって、いかなる宗教団体の信者も本当に真面目に世のため人のためを思って日々の活動を積み上げている。或いは、教えられるままに修行を積み、より信仰的な高みを目指している。

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ところが、信者諸氏は大真面目な人ほどその世界の框(かまち)から抜け出せなくなっている。特に、熱心な人ほどそうだ。例えば熱心に信者を勧誘する人は、入信初期のピラミッドで言えば底辺にいるその他大勢の人が、布教活動の先端にいて、偉くなるほどいちいち信者の勧誘なんかしなくなる。

生命保険の外交員と一緒で、自分とその家族、親族を保険に入れれば、その新人外交員の使命は終わる。その後、優秀な外交員に成長してくれれば保険会社としては儲け物で、たいてい、一人の外交員から数名程度が保険をかけてくれれば、その外交員がどうなろうと、一定期間、保険料は納められるわけで、保険会社としては少額の給料を外交員に払ったところで痛くも痒くもない。

その制度の逆転の発想で利用して収益化を図っているのが、例えば「ほけんの窓口」のような外交員を持たない営業を行っている企業だ。数社の保険会社の中身を比較し、顧客に保険を選ばせるという手法を思いついた「ほけんの窓口」は頭がいいと思う。

さて、宗教について振り返ってみると、有り体に言えば、それは鼠講とは言わないが、その仕組みにも似ている。つまり、一人の誰かが入信すれば、そこから芋づる式に信者を獲得し得て、しかもその中から2世、3世と世代交代してくれる可能性が生まれる。むしろ宗教団体内のヒエラルキーにはその要素が多分にあると言っていいい。それでこそ宗教団体の隆盛の根拠となっている。

いかなる商売であっても、それが道理で、シェア拡大を図る上で、結果を残した者が評価されるのは当然だ。ビジネスの世界ではそれが売上であり、宗教の世界ではいかに多くの信者を獲得したか?いかに多額の献金を集金できるか?の能力で評価が変わると言うだけの話だ。

政治イデオロギーの場合も、煎じ詰めれば同じと言える。

日本は日本国憲法によって主権者は国民と定められ、個人の自由と尊厳が守られている。いかなる法律も、個人の権利を損なうような行動に対して法的規制を行うことを旨としている一方、個人が社会のルールを壊すような行動に対しても法的規制を設けている。実はその社会を構成する要件である個人の双方に法的規制を設けることで民主的な国家の形を作り上げている。

人類史上、全ての個人と国家を統べる法律は存在しないことは当然で、人類は歴史の途上にあると言っていい。しかし、少なくとも法治国家であることが、近代国家の最低条件でもある。相互扶助と個人の自由のバランスを保つために法律が存在し、そこから逸脱すれば社会的な制裁を加えられるのは当然で、「個人の自由は尊重するから、せめてこれくらいは最低限守ってね」が今の法律だ。

それが民主的な国家の最低限の構成要件であり、だからこそ、社会保障制度の整った社会主義ならまだしも、個人ですら国家の所有物となる共産主義は、断じて容認してはならないのだ。その意味で、宗教と共産主義は親和性がある。根本的に似ているのだ。「国家と国民」が「神と人」、或いは「教祖と信者」に置き換えられているに過ぎない。

では、宗教の信者は何を求めて、自分自身をその団体や教祖、開祖に捧げるのだろうか?

この根源的な問いを無視して、或いは触れずして、宗教問題を語ることはできないのではないだろうか?

例えば、参議院議員選挙でカルトまがいの主張をする候補者が議席を獲ったりしてるが、そこにも同じ匂いを感じるのだ。つまり、政治ですらカルト化しているものを感じているのは、私だけではないと思う。

凡ゆる宗教には「宗教的覚醒」が存在する。キリスト教で言う「Reborn」、仏教で言う「悟り」だ。

この瞬間、それまでの自分自身ではない新しい自分になる、或いはそれまで知らなかった世の中の真理を知ることになり、魂が覚醒するのだ。これは日々、誰もが経験していることで、オギャーと生まれた個人は、大人になるごとに多くの情報、経験、知識に接し、自分の力だけでは無力であったり、謎であった物事が誰かに何かを教えられることで、自分の知識や血肉になっている。それに漏れる人はいない。全ての人がそうだ。

宗教に導かれる人の多くも、程度の差こそあれ苦悩を抱えている。つまり、自分の力ではどうすることも出来ない解決の糸口が分からない「何か」を抱えている。もしかしたら、目に見えない何かが自分の両手足を縛っているのか?とさえ思うに至る。そんな時に、まるで魔法のようにその原因と結果の因果関係を説明してくれる人が現れると、我を忘れてそこに縋ることになる。

つまり、宗教にハマる信者の最初のきっかけとは、所詮、その程度のものなのだ。その人がキリストや釈迦やムハンマドのような超人なら、自分の思考一つで原因から結果までを悟ることは可能だろう。ところが人類の中でそんな超越的能力を備えた人は限られた一握りであって、99.99999999%の人は、ほぼ横並びでただの凡人だ。

宗教に触れ、自分の人生が覚醒したことで、人は自分の体験を多くの人に伝えたいと思う。つまり、自分と同じ境遇か或いはもっと苦しんでいるであろう人を助けたいと思う。この純粋な利他心の発露には功名心も無ければ何も無い。非常に純粋なものだ。ただ、ここでよくよく考えなければならないことがある。

人の心は目に見えない、また自分を救ってくれた開祖なり教祖なりも人の目には見えない。ただ、そこには言葉があるだけだ。キリストは意味じくも「はじめに言葉ありき」と言った。キリストですら、神の存在を人々の目に見せたわけではない。神とは見えざる存在であり、神が創造した言葉から世界が始まったと言ったのだ。

これは何を意味するか?

人は見えざる証明不可能なものを信じているのだ。そして、その信仰の発露は、「自分が救われたい」という願望が、その出発点だということだ。更に、自分以外の家族や親族、友人知人を救いたいという、一見、尤もらしい利他心の発露は、「自分だけが知っている真理」で人は救われると信じていることだ。

救われたい人にとっては、何が真理かなどどうでも良い。今置かれている境遇、今置かれている苦しみから逃れたいのが最初のきっかけなのだ。仮に信仰心によって行い、言動が正されば人から信頼を得ることもあるだろうし、仕事が無い人は仕事を得ることもあるだろう。それは見えざる何者かの力ではなく、単に人として人から信頼されているに過ぎない。それを信仰や教えに置き換えるから信じていれば救われると勘違いするのだ。

仮に、宗教を「人間、いかにあるべきか」に活用するならいいだろう。それが、「自分だけが知っている」や、「自分が最初に救われたい」という我良しの気持ちを発露とするから、ややこしくなるのだ。

人としていかにあるべきか?を問うなら、豪奢な宗教施設も、法外な献金も必要などない。そこには、より大きな働きをすれば、自分が真っ先に救われるという思いが強いことの表れでしかない。

つまり、宗教とはそういうものなのだ。そこを分かった上で宗教を語る必要がある。

ただし私は何も宗教団体やその信者全てを否定したいのではない。ようすれば、安易に盲信するのではなく、宗教とはそのようなものだと踏まえて付き合う必要がある。その意味で、日本は戦後一貫して社会福祉、社会保障の仕組みを経済発展に併せて、上手に法整備し、上手に社会構造に組み入れてきた。

今回の旧統一教会問題についてどの政治家がどの宗教と繋がっているか?を議論するのではなく、政治が議論すべきは、布教のあり方の是非を問うべきなのだ。献金の上限額を決めるなど、バカバカしくて臍で茶を沸かすようなものだ。これも繰り返しているが、国家が個人の内心に踏み込んではならない。

ともあれ、新興宗教団体の信者ほど、実は利他の心ではなく、究極的には自分が幸せになりたい、自分が誰よりも先に真理を知りたい人たちなのだと理解した方がいい。

もちろん、全ての宗教信者を否定するものではない。信者の中には、教えの学びとその実践を通して達観した人生観に到達する人もいるだろう。そんな人として向上し、誰からも尊崇の念で見られる人になったなら、宗教なんか離れていくだろう。必要が無くなるからだ。ではそうならないのは何故か?雨後の筍のように新宗教が立ち上がるのは何故か?

究極的な宗教など存在しないからだ。

言い換えれば究極的な信仰など存在しないからなのだ。