カルト宗教批判を批判する

私達が統一教会信者に対して「逸脱」を感じるのは「財産権の自由」「性の自由」を所属組織に委任している点だろう。

財産権の自由は私達が住む自由社会の中核であり性の自由も人間の尊厳の確立に欠かせないものである。もちろん日々の生活に追われている者は財産権の自由を実感する場面は限られるし性の自由も半世紀くらい前までは親の影響が強かった。親の紹介による見合い結婚が多数派の時期があった。

しかし、限られた場面であっても自由に財産を処分することは満足感が大きく工夫次第で財産自体を大きくすることができる。

見合い結婚が多数派の時期も本人の選択は否定されなかった。日本国憲法は両性の合意による婚姻の自由を保障している。婚前性交も皆言わないだけで普通にあったと思われる。

統一教会信者はこの二つの自由を所属組織に委任し、一部信者はその徹底を図るために集団生活をしている。

「自由の偉大さ」が自明の理となっている私達自由社会の住人にとって、この逸脱は強烈だが自由社会の住人だからこそ統一教会への評価は自由からの逸脱を基準にすべきであり、宗教を基準にしてはならない。

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統一教会批判はシンプルに自由社会からの逸脱をカルトとし、逸脱に伴う人権侵害を批判すれば良いだけなのになぜか宗教問題と一方的に決めつけ、日本国憲法下の政府は「信教の自由」の確立に寄与する宗教政策しかできないのに政府が「宗教管理政策」を行っている、あるいは行えるはずだと勝手に想像し、その失政を批判するという末期的な様相である。

野党と左派マスコミが騒ぐ霊感商法や高額献金は消費者保護政策、宗教2世は児童福祉政策、統一教会との「接点」は治安政策の領域である。統一教会批判者が好んで使う「マインドコントロール」「洗脳」も医療政策(主にメンタル)の領域だろう。

宗教の観点から統一教会による人権侵害を評価することはこれらの政策を忘却させる。

「統一教会問題=宗教問題」という思考こそが統一教会対策の幅を狭めている。「統一教会はカルト宗教だ!」という批判は統一教会対策の最大の障害である。

カルト宗教批判は止めるべきだ。

それにしても統一教会問題=宗教問題という思考の持ち主は何者だろうか。どうして統一教会問題を宗教の枠組みで語りたがるのだろうか。

素朴単純に考えれば自由の偉大性に鈍感で自由からの逸脱という評価基準がない者であり、もしかしたら統一教会信者と同じく自由からの逸脱状態にあり、その自覚がない者かもしれない。

日本共産党の統一教会批判をみると「カルト宗教批判者の正体は別のカルト」としみじみと思うし、深刻な時間外労働が常態化しているマスコミ関係者の自由とはなんなのか。一体いつ自由を実感できるのか。

カルト宗教批判の実際は自らのカルト性を誤魔化すことではないか。「自分達は統一教会よりマシだ」というやつである。

統一教会問題を真の意味で解決したい、統一教会の存在によって生じた被害者を救済したいと思うならば、まずもってカルト宗教批判を止めることである。