夏目漱石が「I love you」を「月がキレイですね」と訳した理由(中嶋 よしふみ)

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小説家の夏目漱石は「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳した……何年か前から度々目にする逸話だ。

これが本当の話かどうかはかなり怪しい所もあるようだが、意外性やその面白さから拡散しているようだ。オシャレな表現、日本人らしい奥ゆかしさがある、などおおむね好意的にとらえられている。

ではこの和訳が正確かというと、さすがに意訳のし過ぎで不正確と感じるかもしれない。ただ、実はこの表現は日本語としては極めて正しいことが分かる。少なくとも「私はあなたを愛しています」と訳すよりもよっぽど日本語として違和感はない。

自分は編集長として書き手に執筆指導をする際には細かく添削をする事もある。読みやすい文章を書けるかどうかの違いは「私はあなたを愛しています」のような、日本語のようで全く日本語になっていない表現に違和感を覚えるかどうか、つまり読解力の有無にある。

私はあなたを愛しています……?

この話が以下のように英語のテストで出たらどのように答えるか。

問1 以下の英文を日本語に訳しなさい。
I love you.

中学生になり英語の勉強をはじめたころ、読解問題を解くにはとりあえず単語の下に日本語を書いてから正しい順番に並べ変える、といったことを自分はやっていたと思う。それをこの問題でもやると以下のようになる。

I=私
love=愛
you=あなた

これを並べ替えれば「私はあなたを愛しています」以外の答えは出てこない。ただ、これはあくまで英語をそのまま訳した「和訳文」であり「日本語」ではない。

最近、ヤバイという表現を禁止した中学校の話が話題になった。ヤバイをグーグルの翻訳機能で訳すと dangerous (デンジャラス・危険)となったが、日本語として使える範囲はもっと広い。この漫画はヤバイ、このラーメンはヤバイ、といった具合に質が高いことを一言で表す事ができる便利な言葉となっている。

英語でも cool と言えば冷たいとか涼しいとなるが、前後の文意から冷静とか格好いいと訳す事も可能だろう。全ての場面で冷たいと訳したら翻訳ソフトを使ったような不自然な文章になる。

つまり I love you の日本語訳を「英語のテスト」ではなく「国語のテスト」として答えるとどうなるのか? と考えると、実はかなり難しい問題であると分かる。

「月がキレイですね」を自分が採点するならば、テスト問題として正解にするには独創性が強過ぎるが、不正解には出来ない。〇でも×でもなく△といったところか。

もしこの話が実話だとしたら、夏目漱石は「私はあなたを愛しています」などという不自然な文章は日本語じゃない、と気持ちの悪さを感じて意訳した可能性が高い。

カツオとフネの会話でこの問題を考えてみた

愛の告白のような非日常なシチュエーションでこの問題を考えるのはちょっと難しい。そこで、子どもが学校から帰ってきてお親におやつが欲しいと伝える、といったもう少し日常的なシーンならばどうか。具体的なシーンが思い浮かぶように、アニメ・サザエさんのワンシーンのように、登場人物はカツオと母親・フネでも想像して欲しい。

学校からランドセルを抱えて帰ってきたカツオが家についた途端に発した一言。

「お母さん、僕はお腹が空いたのでおやつが欲しいです」

もし子どもがこのように親へ話しかけたらどうだろうか。極めて違和感のある会話であることは一目瞭然だ。これは「私はあなたを愛しています」と同じで日本語ではなく和訳文だ。自分は執筆指導で日常的に目にしているが、ここまで酷く無くても「日本語になっていない日本語」を書く人は少なくない。日本語で書かれていることと正しい日本語かどうかは全く別だ。

添削指導の例

では子供の会話をもっと自然な日本語にするため、一言一句直していくとどうなるか。

「お母さん、僕はお腹が空いたのでおやつが欲しいです」

まず、主語の「僕」はいらない。自分自身が話している以上、私や僕と言う必要は無いからだ。不要な場面で主語を入れると過剰に強調しているような印象を与える。つまり不自然な日本語となる。

全く別のシチュエーションで、例えば夫婦間で子供の習い事を水泳とピアノのどちらにするかで意見が対立しているとする。この場面で「いや、俺は絶対水泳の方が良いと思う」と喋らせるならば、俺と主語が入っていても問題は無い。自分の意見はこうだと強く相手に伝えようとしている場面であるため、水泳を強調するワードとして主語があることに違和感は無いからだ。

対立ではなく相談をしているくらいの状況ならば「水泳の方が良くない?」「水泳で良いんじゃない?」と主語が無い方が自然になる。わずかなシチュエーションの差により自然な言葉使いも変わってくる。

日本語は単語一つでも意味が伝わる

おやつが欲しいと言っている以上お腹が空いていることは間違いないため、母親にわざわざ理由を説明する必要性も薄い。つまりこのシチュエーションでは不自然という事になる。

親にですます調で話しかける子どももほとんどいないので、これも不自然だ。……と、これらの添削を全て反映させると以下のようになる。

「お母さん、おやつちょうだい!」

当初と比べてかなり自然になったが、これでもまだセリフっぽさが残る。台本なら問題は無さそうだが、本当の日常会話ならばその場に母親しかいなければ呼びかけも不要だ。さらに自然な会話にするならば「ちょうだい」が無くても意味は通る。つまり最も自然な会話にするならば以下のようになる。

「おやつっ!」

母親には怒られそうだが、ちょっと行儀が悪いカツオのような子供の会話としては自然なやり取りだ。「おやつある?!」でも良いだろう。あるいは「お腹すいた!」でもおやつが欲しいというリクエストと同等の意味として伝わる。

結局、「お母さん、僕はお腹が空いたのでおやつが欲しいです」この情報を伝える際に最低限必要なワードは「おやつ!」の一言で十分なわけだ。昔の夫は「メシ・フロ・寝る」の3ワードだけしか口にしなかったといった話もある(妻の立場からすればフザケンナとなるが)。これは日本語が単語だけで意図を相手に伝える事が可能な言語であることを意味している。

これらはすべて会話のやりとりなので、文章で「おやつっ!」と書けば意味不明になってしまうが、自然な日本語の文章は「おやつっ!」と「お母さん、僕はお腹が空いたのでおやつが欲しいです」のあいだにあることが分かる。

さらに言えば「おやつっ!」寄りの方が、つまり少ない単語で構成された文章の方が自然な日本語になる。そういった視点から見ると、新聞に載っているような文章は端的かつ過不足の無いワードで構成されたプロの文章であることが一目で分かる。

文語と口語の違い……などと言い始めると言文一致運動がウンヌンといった国語の授業になってしまうので省略するが、日本語は無くても良い単語を可能な限り省くとより自然に、そして分かりやすい文章となる。

※おやつっ!が正しい日本語と説明されるとかえって違和感を覚える人もいると思うが、これは国語的な正しさではない。日常会話をベースに、理解しやすく意図の伝わる文章を書くにはどうしたら良いのか?という視点で正否を解説している。国語の先生がみなベストセラー作家や売れっ子ライターになれるわけでは無いとを考えれば「正しい日本語」はある程度の幅がある。

不自然な表現をなくすということ

以上のような説明を I love you の日本語化に当てはめてみると、「私はあなたを愛しています」はかなり大袈裟で不自然な表現であると分かる。そこで「あなたを愛しています」と主語を抜くだけで不自然さはかなり薄まる。

自然になる理由はすでに説明したとおり、主語を書くと過剰な協調がなされるからだ。誰の話なのか分からないような書き方はもちろん駄目だが、主語を抜き、無くても意味の通る単語や文章を可能な限り省く。それだけで分かりやすさや読みやすさは各段に向上する。

執筆能力は読解能力で決まると冒頭に書いたが、その意味は違和感のある文章を読み取ることができるか?ということだ。自分で書いた文章に違和感があれば書き直す……これを繰り返すだけで他人の力を借りずとも文章は各段にレベルアップする。

自分は原稿を書いてお金を貰い、書籍も出版しているため作家ではないが文章を書くプロと言っても良いと思う。ただ、手直しをする前の文章はプロというにはヘタクソな文章を書いていると思う。これを自分自身で読み返し、書き直してから提出する事でプロレベルの文章まで引き上げることができる。つまり書く能力と読む能力はイコールということだ。

なぜ日本人なのに日本語を書けないのか?

ここに書いたようなことは決して難しい話ではないのだが、多くの人が知らないまま不自然な文章を書いている。その理由は明白で、国語の授業で「日本語の書き方」を習わないからだ。自然な日本語とは何か、例えば読書感想文や体育祭の感想文を書く際に添削指導を受けることはまずない。

作文の「内容」について良い・悪いの評価を受けることはあっても、文章自体を一言一句直されるような体験は小中高大とほとんど無いだろう。自分が書き手に対して初回の添削指導をする際には、本文を真っ赤に直したうえで3,000文字の記事に対して同じく3,000文字くらいのアドバイスを付け加えて本人に戻す。人に見せられる文章を書くにはそれくらい徹底的な指導が必要となる。

何の訓練も受けていない子どもをピアノの前に座らせて、さあ自由に弾きなさいと指導したり、子どもをプールに突き落として、さあ想像力を働かせて泳ぎなさいと指導するような無茶な講師はいない。ただ、作文だけはそれに近いおかしな指導が行われている。皆が作家やライターを目指すわけではないが、これでは日本語の能力が上達するはずもない。

余談になるが筆者は小中学生のころ算数や理科は好きだったが、国語は大嫌いで作文は特に苦手だった。当時は授業がつまらないから嫌いという位にしか考えていなかったが、今思えば正しい手法や根拠が全く示されていないにもかかわらず、テストでは点数をつけられるという矛盾に納得できていなかったのかもしれない。

最近では企業が自社のHPやSNS、ブログ等を使って情報発信する事はすでに特別なことでは無い。仕事のやりとりはメールやチャットなどの文章が主体という人も急激に増えていると思われる。すでに文章力の有無は有能かどうか判断されれる材料となっている一方で、正しい日本語を書く訓練を受けている人は極めて少ない。

自分が執筆指導をする相手は主に専門家として独立している人が対象だが、ヘタクソな文章書くとそれだけで馬鹿に見える、そんな文章を人に見せる位なら何も書かない方がマシだと伝えている。専門家が馬鹿だと思われれば仕事が減ってしまうからだ。

書く能力と読解力は同じだと説明したが、読解力が無いと正しい文章が書けないだけではなく、他人から見て馬鹿だと思われるような文章を書いているのに気付けないことすらある。

知らぬ間におかしな文章を書いていないか心配な人は参考にしてもらえればと思う。

中嶋 よしふみ(シェアーズカフェオンライン編集長・FP ビジネスライティング勉強会講師)

※こちらの記事は「ビジネスライティング勉強会」のサイトから転載しました。

【ビジネスライティング勉強会について】
士業やコンサルタントなど、差別化・ブランディングを図り集客につなげたい専門家のための執筆オンラインサロン。メイン講師の中嶋よしふみは、2011年にFPとして開業して以来、記事執筆のみでFP相談を集客し続け、出版やテレビ・ラジオへの出演・取材協力、経済紙等での取材・執筆業務を獲得してきた。また自ら運営する経済WEBメディア「シェアーズカフェ・オンライン」の編集長として、専門家・士業へ執筆指導を行い、執筆をきっかけに業務拡大を成功させた書き手を多数育ててきた。ビジネスライティング勉強会では、サロン会員に中嶋の執筆ノウハウを余すところなく提供している。

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編集部より:この記事は「シェアーズカフェ・オンライン」2022年11月8日のエントリーより転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はシェアーズカフェ・オンラインをご覧ください。