私が22歳でゼネコンに入社して土木の現場配属になった初日の話です。その現場は会社が最も得意とする宅地造成工事で山を切り崩し、道路を作り、宅盤を作る仕事です。当然、男臭い。所長に着任の挨拶をすると「事務屋は現場の母としてしっかり技術屋の仕事を受け止めてほしい」と言われました。これが私の人生を変えた一言です。心の中でこう叫んだのです。「冗談じゃない。僕はこの会社にピッチャーとしてエースを取り来たんだ。キャッチャーは嫌だ!」と。いわゆる反骨精神の始まりです。
ゼネコン、しかも土木主体の会社でどうやって事務系社員がピッチャーになれるか、ふと思いついたのが不動産事業でした。当時、何処のゼネコンにも開発事業部はあったのです。「そうか、不動産部門ならピッチャーになれるかもしれない!」。
高校時代のクラスメートで不動産屋の息子が大学一年の時に「俺と宅建を付き合い受験してくんない?」と言われました。それまで不動産の「ふ」の字も知らない中、宅建の分厚い試験のための解説書をしょうがなく、2か月ほど勉強したら二人とも合格でした。しかし、私は合格したことすら忘れ、海外という違う世界を目指したのでドメスティックな不動産には見向きもなかったのです。
縁というは不思議なもので、その宅建の資格が人事の目にも留まり、その後、晴れて開発事業部に配属になります。そこではトップ直轄のプロジェクトを部長と私の二人でやる特命係となり、本社内で一気に名が知られます。その後、秘書に引き上げられ全国区で名が知れ渡ります。その後、社長から「社歴で最大の開発事業を任せた」と海外赴任を命じられた時、あぁ、これでピッチャーになったかな、と思ったものです。海外では事務系も技術系も関係なく協業しないと事業は動きません。組織の垣根がなくお互いの専門性を発揮し合えば面白い展開ができることを実践したのです。
さて、日本では組織論の書籍や研究は無数にあると思います。どういう組織が最も力を出せるのか、というわけです。当然、切り口も多く、このブログで一言でこうではないか、と纏められる代物でもありません。その中で私が思う日本の組織の特色を挙げてみましょう。
上述のストーリーの通り、日本はまず、技術系と事務系、官僚ならキャリアとノンキャリアといった具合に人の潜在能力より所属をベースに色分けをします。そして色ごとにきちんと仕分けするのが日本的なのです。いかにも日本人の大好きな整理整頓のような話です。更に専門組織の中で更に細分化され、技能や経験で「あの人は…」という色付けをします。いわゆる人材比較論です。そして「凄い」と称される人は極端な話、崇められるほどになるのです。これでは若手や才能が見いだされなかった社員にはなかなかチャンスが訪れない組織形態とも言えます。
もう一つは組織同士の関係が薄いのです。「おらが部署」「おらが組織」の思想が非常につよく、組織はより保守的になり、「牙城化」します。これは役所や大企業に特に多く見られます。例えば各省庁は「金のなるお宝」法制度を結構抱えています。それだけは家宝の如く絶対に「見せない、上げない、触らせない」のです。大企業の場合は子会社、関連会社を山のようにもつことで人材の振り分けをします。一定年齢になると居場所がなくなるので外の会社に出向させ、そのかわり、肩書が一つ、二つ上がります。そこで1-2年我慢すると「転籍」となり、自分がいたあの「大企業様」とは「永久のお別れ」となります。
これらの例は本来大きな組織のはずが、どんどん細分化され、能力のベクトルが散っていくのです。そんな事で苦しんだ会社は数知れずあります。有名どころではかつての日産、日本航空、更にソニーもそうでした。が、それらの会社はあるところで気がつき、あるいは誰か強い指導者が現れ、組織の無用な壁が壊され、風通しを良くすることで問題解決を図りました。
先日、当地の大手にお勤めの方が「事務所が2フロアから1フロアになる」と。その上で会社の座席が自由席になるそうです。これで違う組織の人とフラットなやり取りができ、思わぬ発見ができるチャンスが生まれることでしょう。コロナが生んだ発見と改革に背中を押された形でしょうか?北米の事務所は個室型、日本の事務所はシマ型です。どちらも古いスタイルです。双方とも自分に指示されたタスクをこなすという受動的職務になりやすく、能動型、提案型が生まれにくい形態かもしれません。
組織は暑苦しいほどタイトにくっつくよりナチュラルな距離感を置きながらよりオープンにしていくのが今の流れではないかと思います。大事な戦力をあまりに色付けすることは多様化する社会の中で決して得策ではないと思います。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2022年11月20日の記事より転載させていただきました。