旧統一教会に対し宗教法人法の解散措置の適用を主張する者は同法の解散措置が適用された旧オウム真理教(現Aleph・ひかりの輪)が今なお存続している事実をどう評価しているだろうか。しかも旧オウム真理教は教祖・主要幹部が逮捕・収監・処刑されている。
宗教団体ではないが暴力団も組長や組員がよく逮捕・収監されるが必ずしも組織が解散するわけではない。極左暴力集団(中核派・革マル派等)の構成員は隙あらば微罪で逮捕されるがやはり組織として存続している。
旧統一教会を考えるうえで着目すべきは宗教ではなく組織、具体的には洗練された組織は簡単に解散しないという現実である。
洗練された組織を解散させるには組織全体に打撃を与えなくてはならない。
そのためにも結社の目的を確認する必要がある。構成員は結社の目的を達成するために組織に所属している。結社の目的を確認するところから組織全体への攻撃方法がわかる。
わかりやすい例として暴力団を見てみよう。暴力団の組員はなぜ暴力団に所属しているのだろうか。理由は単純で営利目的である。暴力団とは営利組織である。まさか任侠団体と思っている者はおるまい。暴力団は営利組織だから全構成員の営利機会を全て剥奪することが組織全体への攻撃に繋がる。そしてこれは現在「反社会的勢力対策」の名の下、あらゆる業界で実施されている。
暴力団員という肩書を有する限り営利活動ができなければ彼らは構成員としての役目を果たせない。個人としても貧しくなるばかりだ。もはや暴力団に所属する動機がなくなる。
組長を含む全暴力団員に所属動機がなくなれば、それは組織の「解散」に他ならない。
暴力団の例からわかることは組織を解散させるには結社の目的を達成不可能な状態に置くことである。
球技チームは球を取り上げれば活動できない、解散と同じである。手芸クラブは手芸用具を取り上げれば良い。コンパ・サークルは飲食店に立ち入り禁止。麻雀サークルは麻雀牌の所持禁止、ならば宗教団体は…と言いたいがことはそう単純ではない。
政治・宗教団体は事情が異なる。政治・宗教団体の構成員は綱領・教義の達成が結社の目的である。では綱領・教義を達成不可能な状態に置くとはどういうことだろうか。綱領や教義が記された書物を焼くのか。政治演説や布教を禁止するのか。
もちろん書物を焼いても政治演説や布教を禁止しても綱領や教義はなくならない。
なぜならこれらは思想・信仰そのものであり、人間の内心に関することだ。人間の内心に関することは否定できない。現代科学は人間の内心を明らかにする技術を開発していない。組織の財産を没収しても構成員の特定施設への立ち入りや政治家と接点を持つことを禁止しても思想や信仰はなくならない。人間の内心にあるものだから当たり前である。
思想や信仰を否定することは不可能である。
この前提のもと政治・宗教団体を解散させるとなるともう構成員全員を逮捕・収監するしかない。これを主張する勇気がないなら政治・宗教団体に対しては「解散」という選択肢を思い切って放棄することである。歴史を顧みても外部圧力による政治・宗教団体の解散は、その手法が過激になるのが常であり解散の正当性すら失わせてしまう。
かつて大日本帝国は日本共産党を解散させたが共産主義者の存在を否定できず取締りの範囲を極限まで広げ自由主義者も攻撃してしまい、これが対米開戦の一因となり米国に完全敗北、解散させた日本共産党は「崇高な犠牲者」になってしまった。
話を戻そう。思想や信仰は否定できないのだから注目される旧統一教会に対しては「解散」ではなく「健全化」を追求すべきである。実効性のある旧統一教会対策とは旧統一教会への解散戦略を放棄し健全化戦略を採ることである。
旧統一教会の健全化を追求するうえで同教会が2009年と今年9月にコンプライアンス宣言を出した事実は過小評価すべきではない。「パフォーマンスに過ぎない」と木で鼻を括るような評価を下すべきではない。
現在、議論している高額献金規制もあくまで旧統一教会の健全化戦略の文脈で議論すべきである。解散戦略の文脈だと過激な規制論ばかり主張され、いざ立法化しても実務では使えないという結果になるだけである。
旧統一教会対策において建設的議論は健全化戦略からのみ生まれる。
何よりも健全化戦略は宗教差別を防止できる。全信仰者に安心感を与えることができる。
だから岸田首相は旧統一教会に対し解散戦略ではなく健全化戦略に基づき対処していくことを自分の言葉で明確に宣言すべきである。
同時に紛争当事者(元信者自称者・全国霊感商法対策弁護士連絡会)の主張は聞き流すべきである。彼らの主張は健全戦略の妨げにしかならない。