経済至上主義の終焉:廣田尚久『ポスト資本主義としての共存主義』

濱田 康行

廣田は昨年に『共存主義論 ポスト資本主義の見取り図』(信山社、2021年)を出版している。本書はその普及版ともいうべきものである。廣田の思想を凝縮した“共存主義”があまり広まらなかったため、最近の事象を加えてわかりやすく、かつコンパクトに解説したのが本書である。

廣田の第一の貢献は、来たるべき未来社会に名前をつけたことである。資本主義の次に来るのだから、資本主義ではないし、また資本主義よりも先に自滅してしまった社会主義でもない。

資本主義の現状に大いなる失望を感じつつも、多くの論者はこの先に進めないのである。廣田は古典から現代に至る経済学・社会学の書物を広く読み、かつ現状をよく見渡してから、将来社会に“共存主義”社会という名称を与えたのである。廣田も認めるように“共存主義”の詳細はつめられてはいないが、敢えて“ネーミング”を先行させた。

ビタミンとよばれることになる物質が存在することはわかっていたが、その研究が飛躍するのは、まだ漠然とした存在にビタミンという名称をつけてからである。

先取り

廣田には資本主義の本質を自分なりにとらえたという自信があるようだ。それは“先取り”という言葉に象徴されている。ドイツの社会経済学者W・シュトレークは、資本主義は循環する運動体であるという。単に循環するのではなく、拡大する。その根拠は剰余価値の生産とその一方的な搾取にある。周知のようにこれが、かのマルクスの主要理論であるが、廣田はこれに“先取り”を加えた。

“先取り”とは一定時間後に生成する資本主義の成果である剰余価値・利潤を、運動の起点であたかも存在するかのように扱い、それに基づいて運動することである。

廣田はある経験から、これに気がついた。会社の配当は運動の結果、どのくらいの利潤を生まれたかを見てからでなければ決められないのに、事前に決まっている。会社は変動にさらされているから利潤は変動するのに、配当はかなりの期間一定に保たれる。また配当率は業界毎でだいたい決まっている。

廣田は大学を卒業後、ある鉄鋼メーカーに就職する。そこでは、来期の利潤が先に決められ、そのとおりになるように会社が行動する。青年の目にそれは大いなる謎として写り、それが生涯の研究をささえることになる。

“先取り”をするからこそ、成長がある。将来の時点で発生する利潤が、起点で前提されてしまい運動は始まるから、その結果を求めて、なんとしても実現しようとする。だから資本主義は成長するのだ。

先取りは、資本の運動からはじまるのだが、他の面にも展開する。他の面のひとつは国家財政である。将来ある税収が期待できると、それをアテにして借金をする。国債を発行する。廣田は銀行信用も同様に理解する(この点については、評者は異論があるが、それは後述する)。

ところが、資本主義の最近の展開は多くの先取り失敗の事例を示すことになる。将来、アテにしていたものが現実に出現してくれなければ、先取りは“破綻”する。リーマン・ショックは象徴的な例である。

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総有

共存主義は廣田の妄想ではない。経済社会の土台は所有構造である。唯物論や下部構造論にこだわらなくても、資本主義経済の土台が私的所有であることは、大方の是認するところである。

ならば、資本主義でなくなって“共存主義”になったら、所有構造はどう変るか。この問題へ廣田は果敢に挑戦する。

マルクスは、この問題(領有法則の展開と呼んだ)を『資本論』第一巻の事実上の最終章である第24章で展開した。例の、否定の否定である。資本主義の土台である、私的所有は、実は少数者による大きな所有であるが、それは小さく分かれていた個別の所有の否定によって、生み出された。そうであれば、資本主義でなくなるとき、私的所有が否定されなければならない。これが第二の否定、否定の否定である。

廣田はここで“総有”という言葉を示し、これこそ共存主義の土台にある所有形態であると主張する。

入会権

大いに評価されるべきは、“総有”は思い付きの言葉ではなく、廣田の弁護士という経験と、その経験への考察がつまっていることだろう。

現在では聞かなくなったが、入会権は多くの国に存在する権利である。廣田は日本のある地域の入会権に関する訴訟に関係し、“総有”の着想を得た。

マンションは区分所有である。マンション一棟はみんなのもの、つまり共有であるが、実は共有部分と個々に所有する居室部分に分かれる。総有とは、“個々に所有する”を否定した所有形態である。区分所有であれば、その部分は自由に売却できるが、総有ではそれはできない。入会地は、使用することはできるが、個人の意思で売ってしまうことはできない。

「総有」は共同所有の一種であるが、「狭義の共有」と異なって各構成員は持ち分を持たず、したがって持分分割請求はできない。(P.146)

共有(コモン)から総有を抜き出して概念化した廣田の功績は評価されるであろう。否定の否定の帰結が、なんであるのかの論争に対し自分の生み出した言葉で答えている。

総括:国家

廣田は法律家であるから、論理は経済の外にむかって、すなわち法体系、そして国家に向って展開する。本書の終わりの三章でそれが示される。

経済はいわばメンバーシップであり、その具体的存在形態にはバラエティーがある。ひとつの集団はある総有形態を持ち、他には違うそれがある。となると、集団同士が衝突することがあり、それをどう調整するか。ここを出発点に、廣田は国家から世界までかけ登る。

小冊子に、これは無理だから、ところどころに飛躍があるが、ここに廣田の意図もにじみ出ている。このまま、資本主義が進んでしまうことによる、混乱と人々の不幸を避けたい。だから、未来社会の見取り図だけでも早く示したいのである。廣田の年齢を考えれば、この思いは充分に伝わってくる。

論点

廣田の共存主義を受け止め、発展させるために、いくつかの論点を示そう。

所有形態については、一般財と生産手段について分けるべきだろう。廣田も、自分の住む家や身の周りに持ち物のたぐいの私的所有は残るし、残すべきと主張している。生産手段を総有した場合、そこで生産の効率を追求したら、生産性を求めたら、全会一致という決定方法が障害にならないか。

効率を追求しないというなら話は別だが、物財のありあまった先進国ならともかく、途上国では主張できない。廣田は経済成長という看板を降ろせと、何度も主張するが、この点は途上国については保留した方がよい。世には、脱成長論者が多いが、やや引きずられた感がある。

先取り論

資本主義は、シュトレークが認識したように循環運動である。そして、マルクスが第三巻で利潤を説明するときに主張するように、一循環毎にm’(剰余価値)は生まれるから、年率を考えると循環のスピードが重大な要素になる。資本はあるスピードに乗って運動し、gの生じる地点をめざす。gが生じることを事前に“予定”することを廣田の言う先取りだとすれば、スピードが早ければ先取りしやすくなる。一年先よりは一ケ月先、そして週明けというなら先取りの現実性は高まることになる。

経済学では“先取り”は明示的にテーマにならなかった。それはG-W-G’の範式の理解のうちに前提されていた。廣田は、暗黙の合意を取り出して明示したのである。だから、言われてみれば“そのとおり”なのである。

廣田は、資本主義の危機とはこの先取りがうまくいかなくなることだと主張する。要するに、将来のある時点で予定していたgが生まれない。個別企業でいえば、運動が失敗する。そうなれば次の循環が開始できないから、縮小してやらざるを得ない。

これは、資本主義全体を見れば、平均EPS(一株当たり利益)の縮小で、日本ならTOPICSの下落となり、それは典型的な不況現象である。しかし、ある企業が成功して、他の企業が失敗するというのは競争のある資本主義では当然であるから、廣田の危機が本格化するのは、全体として失敗が明らかとなり、それが傾向的になり容易に修復されないという状況である。

だから、資本主義の危機を主張するなら、利潤率の低下とか、現代風に言えばEPSの低下を証明しなければならない。そして、もはや政策的な支援をもってしても回復しないことを証明しなければならない。

廣田は、先取りを国・国債のレベルでも指摘する。将来の税収を先取りしているのだが、借金が多額に累積して、とても払いきれない事態になった現在の日本のような状態を、先取りの破綻、と表現している。MMTなる妖怪理論でごまかそうとしていると批判している。

しかし、廣田の先取り論は広すぎる分、厳密さに欠ける。経済学では暗黙前提されていたことを、先取りがうまくいかないという現実にあと押しされて批判しているだけだ。だから、ここで厳密な先取り論をみておく必要がある。

村岡理論

村岡俊三は、マルクスの信用論の解明を生涯の仕事のひとつとした。彼も“先取り”を発見した。それは、銀行券が、将来出現する蓄蔵貨幣を“先取り”して出されたということである。“先取り”は信用貨幣の発行に際して生じる。つまり、廣田に比べると限定している。

評者である私は、この限定した先取りが商業手形の発行・商業信用の発行に際して生じていると理解している、その後、先取りしているのは、存在している商品が将来のある時点までに売れて貨幣になる、その将来の貨幣を現時点でだしてしまうことである。といっても貨幣はないのだから、それに代わる証書を出すのである。商業信用では、先取りされるのは“代金”である。商品は現にあり、先取りしたのは“売れる可能性”である。それを示せない商品では先取りも不可能だ。

銀行券の場合は、先取りするのは将来銀行に預金される蓄蔵貨幣である。遊休貨幣と呼んだ方がよい。銀行が、ある空間的な広さで預金者を把握していれば、その可能性は高い。逆に、それが狭ければ、預金者が少なければ、危うい。

歴史的には、銀行券は、その顧客・預金者に信頼がある場合に限り、しかも一定の限度額を持って発行された。そういう銀行券だけが受け取られ、流通した。そして大事なことは、一定期間後に預金は集まり、先取りはその時点で解消するのである。商業手形の場合も、一定期間後に販売され貨幣になり、その時点で先取りは終了するのである。

村岡や私が主張する信用論の世界の“先取り”は、先取りが成立する条件がかなり厳密に規定されている。しかも、期間限定でしか成立しない。先取りしても、それがやがて解消するからこそ、次の先取りが成立するのである。先取りの累積を防止するのが、兌換、であり、それを制度的に保証するのが金本位制度であった。

信用論での先取りが、資本の循環のスピードをあげるのは、これまでの説明で明らかである。商業手形を出せば、商品が売れるのを待たないでよい。銀行券を受け取れば、自分の手元に貨幣が蓄積するのを待たないでよい。待たないというのは速いのである。しかし、ここに危険がひそむのは廣田が指摘したとおりである。

ただ、廣田は先取り現象を資本の運動一般にまで拡大してしまうことで、この危険も拡大する。しかし、こうなると資本主義は成立したその時から危ういのである。廣田の先取りは“資本家の予想”と差がない。事業をする以上、予想はするのである。それは危機ではない、その予想が外れると、それはその資本家の危機であるが、すぐに資本主義の危機ではない。

廣田は先取りするのは虚の価値だという。やや意味不明だ。信用論では、商業信用では商品が現存し(発行者の手元に!)、銀行券では銀行の預金にはなっていなくても、顧客の誰かがそれを保有しているのである。どこにも虚はない。商業信用では、価値の存在形態が貨幣ではなく、商品なのである。

資本主義が、いいかげん、である、というのには賛成だが、それが厳密で正直なものとして発生してともいえる。ウェーバーの指摘した資本主義の精神は極めてまじめなものであった。この、まじめな体制に、どうやって、いい加減が、浸透してくるかは、興味深い課題である。

しかし、最近の事象にあまりに注目しすぎると、危機論は安易になってしまう。しっかりとした堅固な建物が崩れそうだからこそ“危機”なのであり、逆に一見、堅固だからある人々は建て直しの望みを捨てないのである。

共産主義革命のように、現在あるものを破壊するのでなく、使えるものは使うというのは、今日の巨大となった生産システムの前提にすれば当然であり、その方向で変革を考えるのには賛成である。

ただし、残すもののなかに株式会社も株式市場も入っていない。銀行はどうか、さらに貨幣は?廣田は切符性を考えているのかもしれない。そうなると、かなりしっかりとした統治機構が必要になるが、それは強い国家にならないか。やや心配である。

契約について

問題になるのは労働契約だろう。生産手段を所有する資本家と、それを持たず労働力を売るよりない労働者との間の契約が平等の外観のもとに結ばれる。労働者の実質不利を是正するためには歴史上、そして各国で様々な規制(労働保護)がつくられたが、ブラック企業は先進国に依然としてあり、中国の辺境・異民族が働く地域には奴隷工場も現実にある。

共存主義になったら、生産手段は“総有”になる?それなら生産のコントロールは誰がやるのか。みんなが選んだ、管理者なのか。経営の現場で必要とされる、時間をかけられない判断が、みんなの合議でできるのか。

廣田は、共存主義>資本主義で、前者は間口が広いといっている。次の社会を考えるとき、経済学だけで考えない、というのは賛成である。経済がすべてを決めるという、経済至上主義の時代は去った。

労働価値から存在価値へ、というのは、この間口の拡大の根本だが、こうなると経済学から距離が遠くなりすぎている。

労働はなくならない。その成果は貨幣になることも否定しない。しかし、それは人工的な貨幣(通貨・流通手段機能のみ)である。つまり蓄財はないから、信用も銀行もない。先取りの根源がないのだから、社会は“安定”するが、成長もないことになる。人口が減少していくのだから、これでもよいのかもしれないが、人口が底を打って再び上昇するとき、そして現代の低開発国ではどうするのだろう。

通貨に関する廣田の嘆きは理解できる。

ヒトはとうとう、こんなところまできてしまった。(P.113)

武田鉄矢の歌のセリフ、「思えば遠くに来たもんだ」が聞こえる。シュトレークの言うように、時間稼ぎをして、危機をごまかして回避して、だましだまし、ついにはMMTなる妖怪を生み出し、“出口なし”(サルトル)になり、仕方なく“長い空白”に突入した。

希望は言葉の発見から始まる。共存主義と経済という言葉に敬意を表する。