憲法の最高法規性と三代原理

日本国憲法は日本の最高法規だ。

憲法98条は、「この憲法は国の最高法規であって、その条項に反する法律、命令、詔勅および国務に関するその他の行為の全部、または一部はその効力を有しない」と規定している。

つまり、国会でつくった法律や行政機関が発する政省令、さらには天皇の詔勅といえども憲法に反するものは(全部または一部の)効力を有しない。

およそ国家機関が行うことのすべてが憲法に反することができないというのが、憲法が最高法規だという意味だ。

最高裁判所 裁判所HPより (イメージ 編集部)

最高法規があるのなら最低法規があるのかという疑問を抱くかも知れない(笑)

何が最低の法規かというのは個人の主観に委ねられる。

私個人は、まったく危険性がない行為を事細かく制限する道交法の規定と、誰にも迷惑をかけていない事柄にまで介入する風営法の規定が最低法規だと思っている。

憲法の最高法規性が重要な役割を果たすのは、法律よりも憲法が優先するというケースだ。

選択的夫婦別姓が違憲でないかと争われたケースなどが典型だ。

夫婦の事情で戸籍上別姓にしても誰にも迷惑をかけることはない。

にもかかわらず、現在の法律は法律婚をすれば夫婦どちらかの姓に統一しなければならないと規定している。

このような法律が憲法のどの条文に反するか、反していると裁判所が認めることができるかは複雑な問題なのでここでは省略する。

非嫡出子の法定相続分が嫡出子の法定相続分の2分の1とされていた旧法は、法の下の平等を保障する憲法14条に反するとして違憲判決が下った。

最高法規である憲法の中で最も重要な条文は13条だ。

憲法13条は、「全ての国民は個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り最大の尊重を必要とする」と規定している。

最も重要な価値は「個人の尊重」という点だ。

「個人の尊厳」と言われることが多いが、条文に忠実に従えば「個人の尊重」と表現すべきだろう。
家でも会社でもなく、われわれ個々人の尊重が憲法の最大の価値だ。

明治憲法時代の家制度では、家長が認めないと結婚もできなかった。

そのような制約からすべて解放し、国民一人一人が個人として尊重されることに最大の価値を置いている。

「個人の尊重」に最大の価値を置く憲法を最高法規として、日本の法体系はつくられている。

とはいえ、「個人の尊重」という漠然とした概念だけでは実効性に乏しい。

そこで、憲法では「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」という三大原理を規定して「個人の尊重」が図られるようにしている。

「国民主権」がダイレクトに規定されているのは憲法1条で「天皇は日本国の象徴であって、この地位は主権の存する国民の総意に基づく」と規定されている。

「主権の存する国民」と書かれているように、「主権」は国民にある。

この場合の「主権」は、国政に対する最終的決定権の意味だ。

国政に対する最終的決定権を国民が有していることを「国民主権」という。

明治憲法では天皇に主権があったが、現行憲法は主権が国民に存することとなった。(一種の「革命」と考える説も有力だが・・・)

「基本的人権の尊重」は、憲法11条以下に人権規定が列挙されている。

憲法11条は「国民は全ての基本的人権の共有を妨げられない」と規定している。

基本的人権が保障されているので、「表現の自由」が保障されたり、適正な手続なくして身柄を拘束されることはない。

このような基本的人権の保障があるからこそ「個人の尊重」が守られる。

最期の「平和主義」は、憲法前文と憲法9条に規定されている。

「平和主義」がなぜ「個人の尊重」にとって重要かというのは、逆を考えればわかりやすい。

戦争状態になって徴兵されて戦死するなどすれば、個々人の尊重は到底実現できない。

ただ、「平和主義」という原理が、自衛隊の違憲性や米軍基地の存在が違憲であるということに結びつくわけでは決してない。

冷戦時代の米ソのパワーバランスによって世界的な対戦が避けられたように、自衛力や米軍の存在によって日本国民の平和的生活が守られているという側面も否定できない。

争いのある部分だが、これはあくまで私個人の考えだ。


編集部より:この記事は弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2022年12月26日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。