連鎖する危機の時代:戦略国家への日本改造の論点
疫病が地球を覆い、戦禍に伴うエネルギー・食糧危機が迫り、世界分断、インフレ、スタグフレーション、進んでは世界恐慌の足音が聞こえ、挙句には「死ぬのがいいわ」が世界的ヒット曲として紅白歌合戦の掴みとなる等、時代は2、30年遅れの世紀末感が漂っている。
こうした中で、ことさら主体性を欠落した我が国の漂流が加速している。
防衛財源論と外交
防衛費を倍増するに当たって、財源を増税によるのか国債にするのか等で揉めているが、答えは諸外国並みに近付けて「武器輸出の範囲を広げ国産武器のコストを下げ競争力を高め、それによる税収増等で極力埋める事を図り、海外武器輸入に当たってもバーゲニングパワーを高めつつ、それまでの間は国債で繋ぐ」という方向以外にない。
当事者意識無く世論のバランスボール乗りに長けただけの岸田首相がお茶を濁すのは詮無い事だが、保守言論までもがそこに言及する事を躊躇するのは何事であるのか。
なお外交全体としては、来るべき激動乱流の時代に於いてこそ横井小楠の謳った「大義を四海に敷かんのみ」を旨とし情勢を読みつつ先手を打ちながら、国際的大義を伴う長期的国益の追求へ向け性根を入れ直してブレずに行くべきではある。
コロナ対策
オミクロン株以降は、諸外国並みに日本でも感染症法の2類相当である分類を5類以下に下げて普通の風邪のように扱うべきだったろう。
しかしこれが為されないのは、民間病院が多くかつ医師会の政治力の前に統制が取れず、医療逼迫した際のリソース配分の緊急対応シフトが出来ぬため、ただただ行動制限、営業制限に頼る他ないからである。なお、万が一の際の医療トリアージを許さぬ国民意識にも一因があると言えよう。
また世界の趨勢が、コロナワクチンの効果と副作用・死亡リスクのバランスから、若年層への接種非推奨等の脱ワクチンに向かっている中、何に忖度しているのか、我が国は幼児にまで接種を努力義務化する等、倒錯した姿を世界に曝しているザマだ。
その他、ゼロコロナ明けの中国からの春節観光客に対し、ビザ発行停止等の断固する手を打たず、検査・隔離の強化はすれど強制力が弱く穴だらけのザル体制。
こうしたポンコツ医療・検疫体制の逆を行くべきだが、各種利権に塗れた立法府も居眠り状態である。
エネルギー・食糧危機
ウクライナ戦争を巨視的に見れば、戦略物資であるエネルギー・食糧を武器とした世界覇権争いの一現象であるとも言える。
この戦争は、ロシアのアイデンティティー vs ウクライナのアイデンティティー + 軍産複合体の利益、米英による大陸ヨーロッパ分断統治指向の伝統、ネオコン・ソロス等の「民主主義への理想追及」、冷戦時代のソ連・ルッソフォビア等の構図でもあった。
だが、ノードストリーム爆破の翌日にノルディックパイプラインが開通し、天然ガスに窮したドイツに米国が液化天然ガス供給を申し出る等、いつの間にかエネルギー・食糧大国のロシア + 市場大国の中国 vs 西側諸国の構図が浮かび上がり、インドを筆頭としたBRICS諸国、中東、アフリカ、東南アジアが前者に靡きつつある風情である。
こんな中、我が国が取るべきスタンスは、食糧に於いては、コスト面をある程度犠牲にして自給率を高める事であり、その中心となるのは穀物によるカロリー及びタンパク質ベースである。この2つが押さえられてしまえば、有事には戦わずして城を明け渡す事になろう。
エネルギーに於いては、CO2温暖化原因説は、両者に相関性はありそうだが因果関係が逆である可能性が高い。一方エネルギー自給率が低い我が国は、化石燃料輸入への依存度を下げる事自体にはメリットがある。このため「脱炭素」には、温暖化説ではなくエネルギー自給強化、多様化の観点にシフトしながら付き合うのが国益となる。新型原発、地熱を中心に拡充するとともに、太陽光、風力については国土破壊等にならぬよう規制しつつ行い、電圧安定化のため水素、アンモニア変換によるものの他、例えば重力蓄電等、蓄電技術の開発を図るべきである。
内政・経済
結局、年金財政・健康保険を現役世代で支えるのは不可能であり早晩破綻する。
これに対するには健康寿命を延ばし、老齢者が週休3日で亡くなる数年前まで働く体制、生命維持装置に頼った寝たきり等の過剰医療の抑制、人材流動化の奨励策とセーフティーネット構築、少子化対策と敵性国家と不良外国人を実質的に排除し、生涯想定国益貢献度をベースにした移民システム等を「ナショナル・ミニマムを伴う自立社会の建設」のベクトルのもと整備すべきである。
以上、筆者は警鐘を鳴らすべく縷々書いたつもりだが、恐らく今後も日本は主体性無く、茹でガエルの状態のまま目覚める事無く底辺まで転げ落ちて行くだろう。
主体性欠如の象徴、キッシーこと現首相の「岸田」は幻であり実在ではない。在るのは日本人の意識であり、それが投影され「岸田」として現れているに過ぎない。
転げ落ちたとして、その沈没した日本が極東の小島としてそのまま歴史の波間に消えて行くのか。あるいは再び浮かび上がる事が出来るのか。その運命は国民の自覚一点に掛かっている。