新・新興宗教時代の到来②

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新興宗教はお金集めが仕事

昨年の安倍元総理暗殺事件は、旧統一教会問題を再燃させ、遂には新法制定まで至った。私は宗教法人「だけ」を標的にした新法については反対の姿勢をとっている。それは、違憲立法の可能性が極めて高いからだ。

しかし、新法においては消費者契約法を発展させる形で、法制定された。これにより、宗教法人で最も大きな問題とされる多額の献金による家庭崩壊等の社会問題が、一つの節目を迎えたことになる。

(前回:新・新興宗教時代の到来

では、実態解明として具体名が出された旧統一教会を人身御供で終わらせていいのだろうか?むしろ、そこにこそメスを入れるべきと考えている。

ただ繰り返すが、信教の自由の範囲で個人の思想信条の具体化としての献金行動に一定の枠を設けたり、上限額を決めることは、国家が個人の内心に制約を加えることになるので、どこまでもその点の法整備は私は反対だ。

むしろ、新興宗教が目的とする点を明確にして、その目的の具体化としてどのような宗教的な行動を信者に敷いているのか?その具体化として、信者のどの部分に影響を与えて信者が行動を起こすのか?まで詳らかにすることが大事だ。

新興宗教に縁の無い人は、宗教に入るとお金を毟り取られるというレッテルを貼ってしまう。

私は、宗教そのものを否定するものではない。

人はいかに生きるべきか?の指針を示す意味で、より良い社会の実現を目指すことに何の否定する要素はない。世のため人のためになるなら、それが道徳だろうと教育だろうと宗教だろうと学問だろうと何でもいい。誰もが納得できるゴール設定なら、諸手を挙げて推奨すべきだと考えている。

① 宗教の大義名分

宗教の目的とするところは、いかなる宗教といえどはっきりしている。立派な人間を作り、より良い社会の実現を目指すことで、仏教系だろうと神道系だろうとキリスト教系だろうとイスラム教系だろうと変わらない。

ところが、教宣を拡充するには尖兵となって最前線で活動する人が必要になる。それがピラミッド構造になっている底辺にいる末端信者だ。上下関係が存在しない宗教団体は存在しない。表向き、如何なる理由を掲げようと、その構造的なものは何も違わない。つまり指導する側と指導される側がいて、目的達成に精進するべく、末端信者が活動を行う。

如何なる宗教といえど、活動の源泉となる精神は「利他」に立脚する。要は誰かのためになると本気で信じて、病気や不遇な家庭環境にある人、様々な悩みを抱えている人たちを探し出して、自分たちの教えを宣布する。そこには、純粋な「人の為に」という思いが発露となっていて、他人が文句をつける筋合いのものではない。

そして、誰かが不幸になる原因、誰かが誰かを救う行為の意味、「救われる」とはどういう意味か?などが各団体の教えによって懇切丁寧に説明されている。

単純に考えて、例えばお金に困ってる人がいれば、何とかしてお金を工面して手渡せばいいと思うし、病気で苦しんでいる人がいれば良い医者を紹介してやり、子供がグレてしまったら家族とその悩みを共有してやればいいと思うのだが、各団体ではそれを独自に解釈しもっともらしい理屈をつけて、問題には原因があると説く。

そして、具体的にはこうすればこうなると方法論を提示して、宗教行動に誘い込む。

② 信者の目的

誰だって目の前にある困難に対して、原因を知りたいと思うし、出来るなら苦しまないで乗り越えたいと考えている。家族だろうと仕事だろうと学業だろうと、個性を持った赤の他人と関わる世界に生き、社会のルールに則っていれば、自分の考えと相いれなかったり、自分の思う通りにいかないことはあるだろう。それは苦しんでいる自分が特別な存在ではなく、誰もがそうなのだ。

つまり、「艱難辛苦」は普遍的な誰しもが経験することなのだ。それを何の苦労もなく乗り越える手段も理屈も、人類に開示した神様みたいな存在は誰一人存在していない。そんな教えや見えざる力があれば、世の中から差別や戦争が消え去っているはずだが、残念だが人類史上ただの一人もそんな人は存在しない。世界で最も多くの信者を有するイスラム教もキリスト教も人類で最初に悟りを得たと言われる仏教ですら、人類を救済してはいない。

こんなことは、少し考えれば誰でも容易に理解できるが、目の前の苦労に追われている人は、目の前の苦労から逃れる術を模索する。

宗教はそこに切り込む。

どう理屈を掲げようと、如何なる教えであろうと、宗教が目的とするところは宗教各々が定義した「幸福」を享受できるという手段を伝えることにある。

つまり、熱心な信者ほど、その教えや宗教活動の先に自らの幸福を見ている。やってることは困ってる人を助けたいという利他の発露なのだが、煎じ詰めれば自分がが多くの人を救って「やりたい」、自分が誰よりも先に真理を「知りたい」、そして何よりもそれらの活動を通じて自分が真っ先に「救われたい」となる。論理的に考えた帰結は、どう考えてもそうなる。

どうして特定の宗教でなければならないのか?どうして自分が信じている宗教でのみ人が救われるのか?の答えを、熱心な信者ほど持ってはいない。何故なら、信じることで救われたという覚醒を起源として、他の人に同じ思いをさせたいと思い、その結果、自分が救われたという覚醒状態を求めているのだ。

旧統一教会問題ではっきりしたのは、家族がどうなろうと、親族から反対されようと、自己満足で多額の献金をしてしまう思いの根源は、それほど複雑なものではなく、客観的に煎じ詰めてみれば、「自分が救われたい」という利己心から生まれている宗教行動なのだ。

以降、

・③ 宗教団体の目的

続きはnoteにて(倉沢良弦の「ニュースの裏側」)。