今から百年前(1923年8月)、日本とアメリカ、フランス、イギリスによる四カ国条約の発効により、日英同盟が失効した。その前年末(1922年12月30日)には、ソビエト社会主義共和国連邦が成立している。学者は、当時の世界を「戦間期」と呼ぶ。
日本経済新聞の社説「いま戦間期の歴史に学ぶこと」を借りよう。
自国優先の行動が吹き荒れた戦間期の状況をいまの世界に重ね、類似性を警告する声が聞かれる。
どこが類似しているのか。東京大学の板橋拓己教授は、朝日新聞のインタビュー記事「2度目の大戦を招いた『戦間期』と今の類似点 何に再び失敗したのか」(1月3日付朝日朝刊)で、こう語る。
第1次大戦後の国際体制は、決して悪いものではなかったのですが、やはり勝者のおごりのようなものはありました。どの国も取り残さない秩序をつくっていかないと、『力の時代』に戻り、戦争に行き着いてしまう。それが、戦間期の歴史から得られる教訓だと思います。
現在を「戦間期」にたとえてよいなら、すでに「戦前」と呼んでもよかろう。よく「戦後日本」と呼称するが、もはや「戦後」ではなさそうだ。
振り返れば、平成は大正(時代)と似ていた。どちらの時代も大震災を経験したが、復興を遂げ、「平和」と一定の繁栄を享受した。護憲運動も盛んだった。なかでも以下の経緯を忘れてならない。
1914年(大正三年)、オーストリア(とハンガリーの二重)皇太子が銃弾に倒れた。この事件を契機とした軍事的な緊張が、四年三カ月に及ぶ第一次大戦に発展する。だが当初は、誰もが早期に収束すると楽観した。
日本人も楽観ないし傍観した。参戦した当事国となったのに、この戦争を「欧州大戦」と呼んだ。当事者意識は100年以上経た今も薄い。日本の陸海軍が何をし、何をしなかったのか、語られることは少ない。
だが、欧州の認識は違う。たとえば『第一次大戦 グローバル革命』(オックスフォード大学出版会・邦訳未刊・2011年刊)が、「参戦国中、最小のコストで最大の利益を得た」国として日本を挙げている(木村靖二『第一次世界大戦』ちくま新書)。
日本は当時から、そう思われてきた。なかでも、同盟相手(英国)の軽蔑を浴びた。
当時も、英外務次官が「日本は最小のリスクと負担で最大の利益を引き出そうとしている」と語り、駐日大使が「われわれが手一杯の時に、わが同盟国(日本)にいかに失望したかを語る必要はないであろう」と書いた。イギリス政府の公式文書も「日英同盟は虚無の基盤の上に存在しているに過ぎない」と不満をぶちまけた。
日本陸軍は「イギリスのみならず、フランス、ロシア、アメリカなどから数次にわたりヨーロッパへの派遣要請を受けたが応じなかった。(中略)この非協力が日英同盟を解消させる一因ともなってしまう」(平間洋一『日英同盟』PHP新書)。
当時も、日本のマスコミは、派兵を「愚論」「愚の極」などと非難合唱した。新聞や雑誌は、同盟国イギリスに不利となる記事を平気で掲載した。それを日本政府も黙認した。
当初、「戦局はドイツに有利」と唱えていた多くの政治家やマスコミは、とくに1918年以降、ドイツの劣勢が濃厚となるや、こぞって親英論調に転じる。それが逆に、イギリスの日本侮蔑を招いた。
当時の野党も、現在と同様、マスコミ世論を利用した。陸軍とて例外でない。皇軍は「祖国の防衛」が任務の自衛軍であり「出兵の義務を生ずべき理由存在せず」と主張した。官民挙げて抵抗しておきながら、大戦開戦からわずか一か月後、ドイツに宣戦布告する。それも派遣要請された欧州ではなく、中国大陸の青島に出兵し、攻略した。
他方、海軍は遅れ馳せながら1917年、地中海に駆逐艦を含む第二特務艦隊を派遣したが、不幸にも雷撃され、艦長以下59名が戦死する。艦隊の犠牲者数は78名に上った。
イギリスでも、チャーチル(第一海軍卿・当時)が、日本軍の派遣に積極的な姿勢を見せた。派遣を受けて「日本海軍は大きな貢献を果たした」と、日本の駐英武官に書簡をしたためている。ロイド・ジョージ首相も「日本は忠実かつ誠実に条約を解釈して、その義務を果たした」と演説した。
だが、第二特務艦隊の尊い犠牲も、日本外交の戦略的な失敗を補うことはできなかった。結局、日英同盟は解消されてしまう。日英同盟を失った昭和日本は、いわゆる太平洋戦争に突入していく。
以上は、明治に日清、日露の戦いを経験した大正日本が歩んだ道である。私には、平成日本の歩みと重なって見える(詳しくは拙著最新刊『ウクライナの教訓』)。
はたして令和は、昭和と同じ道をたどることになるのだろうか。日本国と日本人は重大な岐路に立っている。
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