警世の書「環境主義は本当に正しいか?」は何を語っていたか :環境共産主義への警告

手塚 宏之

世界はカーボンニュートラル実現に向けて動き出している。一昨年、英グラスゴーで開催されたCOP26終了時点で、期限付きでカーボンニュートラル宣言を掲げた国・地域は154にのぼり、これらを合わせると世界のGDPの約90%を占めている。

このカーボンニュートラルに向けた政治の勢いは、ロシアによるウクライナ侵攻がもたらしている深刻なエネルギー危機の中にあってもモーメンタムを失っておらず、最近でも先進国を中心に様々な国・地域で野心的な「脱炭素」実現に向けた具体的施策が発表されている。

たとえばEUでは2035年以降、ガソリン車など、化石燃料を利用する新車の販売を禁止するとしており、米カリフォルニア州やニューヨーク州など、民主党系知事が主導する米国のいわゆるリベラル州でも、同様に35年にガソリン車の販売を禁止することを発表している。

また英国では、21年春にジョンソン首相(当時)が、建物の暖房や給湯に使われているガスボイラーの販売を2035年までに禁止すると発表しており、米国でも今年に入り、バイデン政権傘下の消費者製品安全委員会の委員長が、ガスコンロ販売の禁止を検討と発言して、物議をかもしている。(その後、英国のボイラー禁止は、代替するヒートポンプが高額になるとの保守党内からの反発もあって撤回された。また米国のガスコンロ禁止案も、主たる目的が煤による喘息被害の低減のためとして、異論の出る気候変動対策を副次的な目的に潜ませていて、その実現性は予断を許さない。)

日本でも東京都が、新設住宅への太陽光パネル設置を義務付ける条例を成立させ、議論を呼んでいるが、ドイツでも今年に入りバーデン・ヴルテンブルグ州で、住宅の屋根の改修時に太陽光パネルの設置を義務付けるプログラムを導入するとしている。

こうした個人の消費生活に直接踏み込んだ環境規制や気候変動対策による行動制限は、今後カーボンニュートラル宣言をした国々が、その野心的な目標を達成しようとしたときに避けられなくなってくると考えられ、化石燃料を使用する機器やサービスに対する様々な規制や禁止令、あるいは代替品導入への補助金政策が検討されていくことになるだろう。その一方で、それに対する国民の抵抗や反発も当然予想され、各国が気候変動対策を本格化する中で、政治的な議論を呼ぶことになるだろう。

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こうした動きと並行して昨年来、世界各地で気候変動対策の強化と、化石燃料の使用禁止を求める過激な活動(歴史的名画にケチャップを投げつけたり、石炭を運ぶ車道に自らを接着剤で貼り付けて往来を阻止する等)が頻発していることが報道されている。

地球環境を守るという「崇高かつ正義感に燃えた目的」のためなら、違法な抗議活動も許されるという、過激なレジスタンス活動である。

こうした世界の動きを見る中で筆者が思い出し、書棚から取り出して年明けに読み返した本がある。2003年から2013年までチェコ共和国の大統領を2期にわたり務めたヴァーツラフ・クラウス氏が、大統領在任中の2007年に出版した「環境主義は本当に正しいか?」(邦訳:日経BP社2010年刊)である。

同氏はもともとプラハ大学で経済学博士号をとった経済学者であり、1989年のビロード革命によるチェコの共産主義体制崩壊後、財務大臣として自由市場経済化政策を推し進め、その後92年に首相に就任。2003年には初代チェコ共和国大統領ヴァーツラフ・ハベル氏の後任として、大統領に就任している。

同書は残念ながら現在絶版となっており、図書館で借りるか中古品を見つけなければ読むことができないのだが、最近の世界の動きを見るにつけ、懸念が膨らんでくるので、本稿ではその要点を一部引用しながら紹介していきたい。

先ずクラウス氏が同書を出版した動機は、2007年3月にチェコの大統領である同氏が米国議会下院の公聴会で述べた以下の演説から読み解くことができる(同書に付録として議会証言全文が掲載されている)。

(前略)

私は生涯のほとんどを、共産主義の社会で暮らしてきました。しかし、21世紀の初め、自由、民主主義、市場経済、繁栄にとっての最大の脅威は、もはや共産主義でもなければ、それが形を変え、もっとソフトな形で生き残っているさまざまなものでもない、と言わざるを得ません。共産主義に代わる新たなものとして現れてきたのは、野心的な環境主義です。このイデオロギーは、地球と環境について説き、古いマルクス主義者に似た自然保護のスローガンをもとに、人類の自由で、自発的な進化に代えて、世界規模の中央集権的計画を実行しようとしています。(引用中の強調は筆者追記、以下同じ)

環境主義者は、自分たちの考えや主張は、議論の余地のない真実であると思っています。そして自ら掲げた目標を達成するために、マスコミ操作やキャンペーンという新手の手法を駆使し、政策立案者に圧力をかけています。彼らの議論の中心は、世界の未来が深刻な脅威にさらされていると宣言することで、人々の恐怖を煽り、パニック状態に陥れることです。このような空気を世の中に創り出し、政策立案者に自由主義に反対する措置を採用させ、すべての人間の活動に独断的に制限、規制、禁止、制約を押し付け、巨大な権力を持つ官僚の下す決定に従わせようとしているのです。

(中略)

 気候変動の原因を人間だけに押し付けることで、環境主義者は、経済成長、消費、そして彼らが危険だと想定する人間の行動を制限するための政治行動を求めています

(後略)

こうした立場に立ったクラウス氏は、同書の第一章で、先ずイデオロギーとしての環境主義を、以下のように痛烈に批判している。

環境主義とは、その結果がどうなるかなどおかまいなしに、人間の生命を犠牲にし、個人の自由を厳しく制限することで、世界を根本的に変えようとする運動である。

共産主義の場合と同様にこのような方法はユートピア的(非現実的)であり、目的とは全く異なる悲劇的な結果となってしまうのがオチだ。無理やり実現しようとすれば、人々の自由は制限され、少数のエリートが圧倒的多数の人間に命令を下すという状況が必ず生まれてしまう

大切なのは、想像もできないほどの重大な危機を予言し、深刻な脅威を示すことで、人々に危機感を煽ることにあるのだ。このような危機的な空気が世の中に作り出されると、新しい義務が生まれてくる

このような状況の中では機会費用といった考えは無視されてしまう。代議制民主主義のようにじっくり話し合って結論を決めていくという手続きは廃止され、一般の人々を無視し、状況を理解していると見なされる人間が直接決断を下すのである。

過去150年間、社会主義者は、人間を大切にしろ、社会的平等を守れ、社会福祉を充実させろといった、人道的で思いやりあふれるスローガンを実に効果的に唱えていたが、結局、人間の自由を破壊してしまった。環境主義者も同じように崇高なスローガンのもとに、人間より自然に対する不安を表明しながら、社会主義者と同じことをやっているのである。

(ゴア元副大統領の著書「不都合な真実」の)最悪な点は、全く証拠もないのに、自分ひとりが真実の鍵を握る人間だという視点を人々に押し付けようとするやり方である。

(彼らは)問題は『倫理的』なものだとみなしている。だから、なんのためらいもなく、私たち全員に頭ごなしに倫理を振りかざしながら説明している

『ポピュリズム』の明確な特徴は、トレードオフを考えるのを拒絶することにある。要するに代案を考えることを拒み、どんなことにも交換条件が必ずあるという事実を拒否することだ。

私は環境主義を現代という時代のもっとも重大な反自由主義で、大衆迎合主義のイデオロギーと考えている

こう断じたうえで、クラウス氏は第2章で、環境主義者の主張する、「資源の枯渇(今でいうプラネタリ・バウンダリ)」について論じている。

同氏によると資源枯渇は、現状の物理的な残存資源量が問題なのではなく、人類が経済的に利用可能な「価値のある(価格付けできる)」資源の供給可能量が問題なのであり注1)、それは利用技術や採掘技術、社会での需要などによって刻々と変化していくものである。その供給量を本質的に規定しているのは、人類の知識や科学技術なのである。

古代エジプト人の住んでいた土地の地下には、豊富な石油が埋まっていたが、それは「資源」ではなかったし、ピラミッド造営に使われることもなかった。技術的に使えない「資源」は無いのと同様なのである。

一方70年代のベストセラー「成長の限界」は、人口の急激な増加により食料やエネルギー資源が枯渇し、人類は存亡の危機に直面すると警告していた。しかしその後現在に至るまで、人口は3倍以上に増えたが、食料生産性の拡大により飢餓人口は減り、原子力、再エネの拡大やシェール革命などのエネルギー技術革新により、世界の一人当たりエネルギー供給量は拡大を続けている。

人類は長い歴史の中で、必要となる資源を、新たな知識、技術で次々に見つけ出すことで今日の繁栄を築いてきたのだとしている。つまり(有用な)資源の供給量は、人類の知識や技術に依存しているのであり、その供給量には無限の可能性があるというわけである。

環境主義者は一般に(自分たち以外の)人間の自由を認めようとしない。彼らの反自由主義的、国家統制主義の考えの基礎には、人類(そして人類の技術的進歩)を信頼せず、自分たちにしか状況は変えられないというマルサス主義者の思い上がった信念がある。

資源を生み出す根本にあるのは、本来人間の知識の無限の成長なのである

けだし名言といえよう。

このように、科学技術によって人類は繁栄を続けてきており、今後も人類は、今は想定できないような科学技術の進歩によって、眼前の課題、将来の危機を乗り越えてくだろうという「人間肯定論」に立つクラウス氏は、第4章で、気候変動対策の誤ったアプローチを批判している。

厳しい気候変動対策の導入を正当化する経済学の根底には、将来の科学技術や人類の知識の進歩を想定していないという決定的な誤りが存在し、結果として将来に対して「非現実的に低い割引率」を適用する(何十年後の未来の世代も、現在の我々と同じ技術、道具、知識に頼って生活しているという設定を意味する)ということが横行していると批判する注2)

そうした前提を設定すれば、

はるか未来への影響が膨大なものとなってしまうので、現在のCO2の排出量、ひいては実質的にはあらゆる消費をかなり減らすことが正当化されることになる。

とし、こうした立論では

未来の人間が現在の私たちより豊かであり、技術も進歩していて、おそらく今とは全く異なる問題に取り組んでいるという事実を無視してしまっている。・・現在の眼を通して未来を測定しようとすれば、必ず子孫たちから失笑を買うことになるだろう。

と警告している。

そのうえで第5章、第6章では、こうした「過大評価」された未来の危機に対して、現在の世代が巨額のコストや、行動の自由に制限をかけて対策を行うということに対して、警鐘を鳴らしている。

リスクが小さいのに保険料が高ければ保険を買おうという気にはならない・・ところが私たちはゼロではないにしろ非常に小さなリスクに高い保険料を払うよう要求されているのだ。

環境主義者が規制介入や禁止を正当化するため、予防原則を金科玉条にしているのを私たちは目の当たりにしている。このような規制を実行するには、差し迫った大災厄についてたっぷり説明した後、未来に関する単純きわまる道徳的で崇高な説教をし、アル・ゴア流の人類に関する「不安」を示しさえすればいいのである。・・予防原則の手法を利用すれば、ほとんどどんなことでも禁止できるようになってしまう

・・勘違いの予防原則が、一貫した詳細な徹底的な費用便益分析なしに、石炭や原子力燃料から生まれる危険にまで応用されてしまい、全く効果が無く今後過剰な負荷を背負わせてしまう解決策に導いていくことに、私は最大の不安を抱いている。世の中には必ずなにかしらのトレードオフがあるものだ。そして交換すると、えてしてもっと高くついてしまいがちになる。そんなことはないと安請け合いすると無責任な大衆政治になりかねない。

興味深いことに同氏は、原子力に対する環境主義者の批判についても、変動性という本質的な弱点を抱えた太陽光や風力などの再エネに偏重して解決策を見出そうという昨今の風潮まで予見している。

科学的知見に基づく政策推進という、今日では疑う余地なく主流となっている気候変動対策の進め方についても、同氏は、同書の中でIPCCの報告書の「政策立案者向けサマリー」について疑念を示している。

基本的な問題とは・・発生する恐れのある大災厄に取り組む計画を実行に移し、できるだけ多額の公的資金を獲得するため、真実の一部だけを故意に大衆に広めようとしているように見受けられるのだ。

この恐れのある大災厄が、より『予期せぬ事態』に見えれば見えるほど、科学者たちはもっと多額の資金を使えるようになるだろう。」

研究で現存するデータから温暖仮説と異なる予測や説明を導き出した科学者は、必ず脅されることになる。「邪悪な」石油会社に協力していると非難されたり、補助金が使えなくなったり、昇進できなくなってしまうのだ。・・共産主義の時代にもこのように個人的に脅しをかけられていた人々がいた

このように、ともすればイデオロギー化が懸念される科学レポートの在り方についても警告を発している。

そのうえでクラウス氏は

環境主義者も結局、共産主義者と同じ末路を迎えることになるだろう。(人間社会、経済、言語、法制度、自然、気候のような)複雑なシステムはすべて、無理やり管理しようとしても、必ず失敗に終わってしまう。・・社会主義者と環境主義者は一般に、システムが複雑になればなるほど、そのシステムの自然の動きに任せておけなくなり、指導したり、規制したり、計画したり、設計したりしなくてはいけない、と考えてきた

 と、共産主義的、計画経済的なトップダウンでの気候変動対策を批判し、経済成長による繁栄を必須の大前提としたうえで、「自由」な人間の合理的な行動選択や、科学技術の進歩による斬新な手法による気候変動対策や適応に任せるという、レッセフェール的なアプローチを提唱している。

私は、自由こそ、あらゆる環境に関する考えや要求が正しいかどうかを測定するためのたったひとつの正しい標準だと主張している。だから現在の地球温暖化に関する議論は、本質的には自由に関する議論なのだ

上から強制的にあらゆることを制限したり禁止したり・・価格を法外に吊り上げる必要はない。経済成長を遅らせてしまうのは全くの誤りだ。なぜなら、経済が成長しなければ、発生した生態系の問題に対処することはできないからだ。成長こそが絶対的に必要な条件なのである。

こうした上で、本書の執筆当時、2007年時点で世界の気候変動対策の要を担うとされていた、京都議定書にも攻撃の矛先を向けている。

なかでもとりわけ極端にはしりすぎているのは京都議定書である。この議定書は次のような理由から致命的な誤りを犯している。議定書は、なくても構わない目標まで設定している。議定書は解決できない問題まで解決しようとしている。議定書は経済成長を抑えようとしているが、経済成長がなければ生態系をはじめとする未来の課題に対処できなくなる。議定書を遵守しても目に見えた成果はあらわれない。議定書は現代社会に存在するはるかに重大で急を要する『解決可能な』問題から人々の目をそらせてしまう。

最善の方策は、現在の大変穏やかな気候変化と共存し、経済発展を促していくことだ。そうすることで将来もっと効果的な技術に投資できるだけの資本が生まれるだろう

これが今から16年も前、世界がまだ「パリ協定(2015年12月合意)」も持たず、京都議定書の第一約束期間(2008年~12年)に入って、先進国だけが対策を開始する以前に書かれていることを考えると、クラウス氏の慧眼には恐れ入らされる。

まさに同氏がチェコの大統領として世界に発した警告どおりの事態が、2023年の今日、現実のものとして我々の前に現れ始めているのではないだろうか。

世界が掲げた2050年ネットゼロ排出という野心的な目標に向けて、今後各国政府が具体的な政策を展開していくにあたり、我々はこのクラウス氏のメッセージを今一度深くかみしめ、気候変動対策が思わぬ副作用を生み、将来、気候変動がもたらすであろう災禍を上回る人為的な災禍を社会にもたらさないように気を配っていく必要があるのではないだろうか。

同書の最後にクラウス氏は「ではわれわれは気候変動対策として何をすればよいのか?」という問いに対しする答えとして「楽観主義による提言」を掲げているので、これを紹介して本稿を閉じることにする。

楽観主義による提言

  • 環境のために努力する代わりに自由を獲得する努力をしよう。
  • 自由、民主主義、人間の幸福といった基本問題より、気候変動を優先したりしないようにしよう。
  • 上から人間を組織せず、全員が自分なりの人生を送れるようにしよう。
  • 温暖化といった流行現象に流されないようにしよう。
  • 科学を政治的に利用するのを許さないようにしよう。・・多数派によってなされている「科学的合意」という幻想を受け入れないようにしよう。
  • 自然に対して敏感で注意深くなろう。
  • 人間社会の自発的進化に対し、謙虚な気持ちで信頼を寄せるようにしよう。
  • 破滅的な予測を恐れたりせず、予測を利用して人間の人生に不合理な介入をさせたり、促されたりしないようにしよう。

注1)同書では資源として石油などの化石燃料を想定して記述されているが、大気中の温室効果ガス許容排出量なども広い意味での資源量になる。

注2)この論点は、割引率をほとんどゼロ(0.1%)と仮定して将来の費用便益を見積もった「スタンレビュー」(2006年に英国政府委嘱により発表された)に対し、ノーベル賞受賞経済学者のウィリアム・ノードハウスが行った批判として同署に詳しく紹介されている。