学術会議問題、未だに燻り続けている。政府と会員の間に挟まれて奔走する梶田隆章会長が気の毒でならない。世界最高峰の科学者には本来の場でこそ活躍してもらいたい。
ところで、梶田会長は小林鷹之科学技術担当大臣に宛てた昨年7月25日付の文書「先端科学技術と『研究インテグリティ』の関係について(回答)」の中で、科学技術の研究においてデュアルコース(軍事に転用可能)とそうではないものを単純に区分するのは難しく、一律な判断は現実的ではないとの見解を示した。
政府はこの見解を「前向きに評価」し(内閣府、2022年7月29日)、また読売新聞は「踏み込んだ考え方」と肯定的に受け止めた(2022年7月27日)。
こうした好意的な空気を警戒したのか、学術会議は27日の定例会見で、「軍事研究への対応が変化したかのような報道が一部にあった」として、改めて1950年及び2017年の軍事研究全面的禁止の声明を堅持するとの考えを強調した(NHK政治マガジン、2022年7月27日)。
この梶田文書をめぐる学術会議の動きに加え、2020年秋の新会員6名任命拒否の騒動を思い返すにつけ、同組織内の自然科学系と人文・社会科学系の温度差のようなものを感じる。憶測にすぎないが、安倍=菅の政権ラインを憎悪し、いたずらに政府との摩擦を強めてきたのはどうも社会科学系の、それも一部の会員のような気がする。
国際的な厳しい研究競争に鎬を削る自然科学系の研究者は、硬直的な軍事研究禁止の縛りに危機感を募らせ、また研究力強化のために政府との正常な関係を望んでいるのではないだろうか。軍事への転用の危険性や研究の倫理問題については、公正かつ客観的立場の第三者機関を設立し、その判断に委ねることで十分だと思う。
人文・社会科学系会員の中に、凄まじい国際的な研究開発競争を体験し、その重要性を認識できている人は果たしてどのくらいいるのだろう。少なくとも自然科学系研究者ほどには理解できていないはずだ。論文数の世界ランキングをみると、両者の研究力や意欲の格差がわかる。
下表は、世界各国の学術論文数を比較し、ランク付けをしているSJR(Scimago Journal & Country Rank)のサイトから日本の順位を抜き出したものである。サイトでは、論文総数の順位の他に、27の学術分野ごとの順位、さら1996年から2021年までの年次順位を閲覧できる。
表では、総数のほかに11分野を取り出し、経年的比較のために直近の2021年のほかに、2011年、2001年の順位を示した。
日本の研究力の後退は明らかで、論文総数では、20年前の2位から7位に転落した。1位から6位は順に中国、米国、イギリス、インド、ドイツ、イタリアであった(SJR)。
しかし、それでも自然科学系は健闘している。資金不足、業務過多など年々厳しさを増す理科系大学/学部の研究環境はもとより、中国、インドの台頭、先に述べたような研究テーマ上の制約を考えると、致し方ない面も少なくない。それに引き換え、人文・社会科学系はどうだろう。とても先進国とは思えない。
政治学という一分野、しかも学界のごく片隅にいた身にすぎないにもかかわらず、大口を叩かせてもらえば、日本の人文・社会科学者には海外の研究者と肩を並べて競うという意欲が薄いようにみえる。この内向きの空気は、(政治)学界や大学内にも蔓延し、査読付き国際学術誌への投稿や国際的な学会報告など海外での学術活動は評価どころか、推奨さえされない傾向にある。むしろ、メディアで活躍したり、社会運動に励んだりするほうが歓迎される。
たとえば、私が勤務していた大学では、教員が新聞、テレビに登場すると、その記事や登場シーンが大学院の掲示板や大学ホームページに大々的に紹介されていた。しかし、英語の査読付き論文や学術書の存在は教員紹介ページから当該教員の名前にアクセスし、さらに学術データベースをクリックしなければわからない。そんな面倒なことは誰もやらない。
メディアにおける活躍や社会運動が無意味だと言うつもりはない。これも大学教員の社会貢献の一つだろう。露出はかれらの自尊心を満足させるうえ、大学名が売れるというもメリットがある。だが、それは教員の研究力を低下させ、やがて意欲さえも減退させる。研究の国際競争力をつけるどころではない。せいぜい自然科学系の足を引っ張るのが落ちだ。