警察官が裁判所からの許可なくして容疑者の自宅に入り、犯行の証拠品となる手紙を見つけたとしても、法律上、それらは証拠品と見なされない。なぜならば、警察側が裁判所の許可なく家宅捜索に入り、容疑者の物品、書類を入手したからだ(米国の場合)。
どうしてそのような話をするかというと、荒井勝喜秘書官が記者たちにオフレコで語った内容をメディアが記事化したという今回の件も、上記の話と似ている点があると感じるからだ。
先ず、荒井秘書官が語った発言は性的少数派への差別であり、公職の立場の人間が言うべきものではない。これに先立ち、岸田首相は予算委員会の答弁で同性婚制度導入に関して「社会が変わってしまう」と発言し、後に「不快な思いをさせた」と謝罪している。もともとの答弁原稿にはこの言葉はなかったというが、スピーチライターである荒井秘書官にこの件を質そうとするのは記者の取材行為としては当然のことだ。
しかし、荒井秘書官はオフレコ会見で個人的感想を口にしてしまった。メディアとしてはオフレコの約束を破ってでも報じる価値があると判断したのだろう。ただ、その際、「記事にはしない」という前提のオフレコ会見で得た内容を暴露することの是非が問われる。書いてしまうのは「約束が違う」ことになるからだ。書かない前提で話したのに、それを載せるというのは、いわば“だまし討ち”である。
これが、裁判でいう「証拠」として採用できるかどうかだ。警察官が容疑者の犯行を裏付ける物的証拠を見つけたとしても、警察側がそれを不法な手段で入手した場合、裁判で証拠品とはみなされない。同じように、オフレコ発言をもとに荒井秘書官の差別発言を追求できるかどうかだ。
山上徹也容疑者が安倍晋三元首相を銃殺した時もメディアには不自然な論理が支配していた。事件は明らかだ。山上容疑者が自身の思いから安倍元首相を銃殺した。容疑者は犯行現場で逮捕されたから、事件捜査は容疑者の犯行動機を解明することに集中した。
その犯行動機が旧統一教会への恨みがあったという容疑者の供述内容が報じられると、事件の焦点が銃殺事件から、旧統一教会の過去の問題に急旋回していった。メディアは旧統一教会を大きく報道し、元首相銃殺事件の解明は全く無視されてきた。あたかも、事件の解明をぼかすために、旧統一教会問題を大きく報道しているかのようだ、といった印象さえ受ける。
殺人容疑者には特定の団体、人間への恨みがあるケースが多い。山上容疑者の場合、それは旧統一教会だった。しかし、旧統一教会に恨みを持つ人間が全て山上容疑者のように殺人事件を犯すということはないだろう。元首相銃殺事件は第一に山上容疑者の中に犯行の第一原因があったと受け取るべきだ。しかし、メディアの多くは旧統一教会の中に犯行動機の第一原因があると受け取っている。
しかし、メディアもさすがに「旧統一教会が元首相を殺した」とは言えないから、旧統一教会が如何に反社会的組織かをこれでもかこれでもかと報じることで、状況証拠を積み重ねていく。恣意的か、無意識かは別として、左派的メディアは山上容疑者の共犯的な役割を果たしてきたわけだ。
荒井秘書官の場合、メディアは不法な手段で情報を得る。一方、山上容疑者の場合、旧統一教会嫌いの左派メディアが主導的な役割を果たし、事件の核心をずらしていく。両件とも、メディアが事件を編集し、恣意的に操作しているのだ。「メディアの犯罪」と呼ぶべきかもしれない。
今回オフレコ発言を記事化した記者が「当方氏は荒井秘書官の差別発言の深刻さを無視して、どうしてオフレコ発言ばかリ問題視するのか」と質問するかもしれない。当方の答えは「山上容疑者の犯行を無視して、どうして旧統一教会の過去の活動ばかりを問題視するのか」だ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年2月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。