怪しい治療をしている先輩医師に話しかけられてしまった時の話

Yuji_Karaki/iStock

研修医の頃、勤めている病院に「怪しい治療」をしている医師がいた。

すべての診療がそうではないのだが、診療の一部で何やら指で輪を作って引っ張ったり、漢方薬の袋の上から「念」のようなものを送り込んだり、ホメオパシー的なこともしているらしい。

端的に言って怪しかった。

僕はその頃、EBMや最新のエビデンスを学んで患者さんに適切な医療を提供しようと日々奮闘していたわけで、そんな僕にとって、怪しい治療など論外中の論外、エビデンスのない治療はすなわち悪だったのだ。

もちろん僕からその医師とお近づきになりたいとは思わなかった。同じ病院にいるにも関わらず、かなり距離を置いていた。医療という科学的根拠が求められる神聖な場に、オカルト的な要素を持ち込んでくることに対し、大きく違和感を感じていたのである。

いや、もっと言えば…「闇落ち」などと言っていたような気もする。若干バカにしていたかもしれない。

ただ、僕は何も行動はしなかった。

実は医師の世界には「他の医師の行動には基本的に口を挟むべきではない」という空気がある。

ひどい治療をする医師でも、多くの場合周囲の医師は何も言わないのが通例だ。だから他の先輩医師たちも、本人のいない所で嘲笑的に話題にすることはあっても、決して本人にそれを指摘することはなかった。

そんなある時、僕はたまたま忘年会の席でその先輩医師の隣席になった。僕は内心「その話になったら嫌だなー」と思いつつ、ありきたりな会話でその場を繕った。

そんな僕の気持ちを見透かしてか、先輩医師はこう言った。

「君は僕がやってる治療についてどう思う?最新のエビデンスやEBMを学んでいる若い君たちにとって、僕がやってることはエビデンスのない出鱈目に映るかもしれないよね。」

と。

図星を突かれた僕は、しどろもどろになってしまったような気がする。

医師は続けた。

「でもさ、僕がやってる治療、僕が自分でも効果を確信してやってると思う?」

僕はその言葉に驚いた。

「え?効果ないと思ってやってるんですか?」

「いや、治療してるんだから効果があるといいな、と思ってはいるけどね。」

「…でも効果を確信しているわけではない、ということですか?」

「まぁ、そういうことだね。でもさ、君だってそうだろ?君は今抗がん剤の治療している患者さんも診ているよね。じゃ、抗がん剤は必ず効くと思ってる?」

「いや…医療の世界に『必ず』はないので、それはないですけど…」

「そうだよね。何もしなければ5年後の生存率20%の患者さんが、抗がん剤をやれば30%に確率が上がる。これ、たしかに統計的に効果あるのかもしれないけど、絶対に効くというわけじゃないよね。仮に抗がん剤治療しても70%の人は5年も経たずに死んじゃうんだから」

「確かにそうですが、それと先生の治療に何か関係があるんですか?」

「えっ? だって同じじゃない。君が使ってる抗がん剤も、エビデンスはあるとはいえ結局『効果があるといいなー』くらいの思いで使ってる、ってことでしょ?」

「確かにそういう表現をすれば同じことになってしまいますが、ただ、その治療にエビデンスがあるとないとでは大きな違いがあると思いますけど…。」

「まあ、そうかもね。でもエビデンスがあるとかないとかってあまり興味ない患者さんもいるかもしれない。あと、両者違いと言えばエビデンスもそうだけど副作用にも言えるよね。僕のやっているおまじない的な治療には副作用なんてほぼない。でも、抗がん剤はもちろん、すべての医療用薬剤には必ず副作用があるからね。つまり、5年後に10%の生存率アップが期待されるけど副作用で苦しむ薬と、効果はたぶん「気の持ちよう」だけど副作用はない治療。単純に比較できるものではないけど、どちらを選ぶかは患者さん次第だとは思わないかい?

「…そうかも知れませんが…、でも僕たちは医師なのですから科学的な正しさを求められているわけで…だからこそ僕達はできるだけ科学的であるべきだし、患者さんには科学的・医学的に正しいことを勧めるべきではないですか?」

「確かに、そういう一面はあるかもしれないね。事実、そういう役割を医師に期待している患者さんもいるよ。でも、そういう患者さんばかりではないからな〜。患者さんの選んだどんな選択も、出来るだけ否定せず最後までお付き合いする、医師にとって、このことのほうが大事なような気がするんだ」

僕の記憶はここで止まっている。

このあと、僕は何か言ったかもしれないし、言わなかったかもしれない。他の誰かが会話に入ってきたかもしれない。たぶん、この時僕は先輩医師の言葉の本当の意味を理解できていなかった。もしかしたらこの後失礼なことを言ってしまったかもしれない。

そしてその後、僕はその病院での研修を終え北海道の山間部・夕張市に赴いた。

夕張で僕は、それまでの総合病院での医療とは全く違う、地域医療やプライマリ・ケアと言われる医療に触れた。僕は初めて病院の世界から一歩外へ出たのだ。

一人、とても印象的な患者さんが居た。

肝臓の病気がある高齢女性。病気はそれなりに小康状態で、家で普通に生活していたのだが、ある時突然病状が悪化した。

「畑で倒れている」という旦那さんからの電話を受け、僕は緊急往診の車を走らせた。

案の定患者さんは意識が朦朧、肝臓の急激な悪化が予想された。

患者さんを家に運び、採血して病院に持ち帰ると、やはり肝臓の数値は極度に悪くなっていた。一刻を争う事態だ。僕は札幌の総合病院に患者受け入れ要請の電話をかけ、何件か断られながらも受け入れ先を確保した。そして救急車を呼んで患者さんを札幌の総合病院に救急搬送した。

僕は迅速な行動と判断ができたことにホッとし、我ながら満足した。僕はまだ若く、医療の視点で、医療の世界から世の中を見ていた。

それから1カ月後ぐらいのこと。その旦那さんと話しをする機会があった。その時にはすでに、奥さんは札幌の病院で亡くなっていた。僕もそのことは知っていた。

旦那さんはこう言った。

「妻は家で死にたいってずっと言っていた。札幌の病院でそう言いながら死んだんだ。あの時、救急車に乗せられて札幌に行ってしまったから…。俺も妻も『助けてくれ』なんて、一度も言わなかったのに…。」

そう言う旦那さんの顔は残念さでいっぱいだった。

僕としては、真っ当な医療を提供したことに変わりはない。あの時高度医療機関に治療を依頼することは医学的判断として、至極正当である。

しかし、医師側が考える「エビデンスの折り目正しい医学的な正解」と、患者さんが考えている「自分の人生の正解」…そのそれぞれが全く別の次元にあり、双方の方向性が重なり合うこともあれば、反対を向くこともある…。患者さんの本当の思いを叶えるためには、医学的正解とは全く逆方向に舵を切る勇気が医師に求められることがある。この時僕はこのことを嫌というほど思い知らされたのだ。

その時、ふとあの先輩医師の言葉を思いした。

「どちらを選ぶかは患者さん次第だとは思わないかい?」

そうなのだ。

あの時先輩医師は、医学的正解を「唯一の正義」とばかりに振りかざす若い僕に対し、

「しっかりと患者さんの思いを聞き、どんな選択も尊重し寄り添うこと。時には医学的正解とは全く逆方向に舵を切る勇気が医師に求められること」

を教えてくれていたのだ。

この気付きは僕にとって雷に打たれたような衝撃だった。

以後、この視点で物事を見るようになると、この方向性の相違は診察の場において非常に頻繁に発生した。つまり、診療の現場において、市民一人一人の選択が医学的正解と全く違う方向になる、という事態が多発したのである。

…いや、正直に言おう。

本当は、そんな事態がいきなり多発したわけではない。

そうした視点を持っていなかった以前の僕には、市民の皆さんは本当の気持ち(自分の人生の正解)を打ち明けてくれていなかっただけのことだったのだ。

今僕はこんな素晴らしい気づきを与えてくれたあの先輩医師にこの上なく感謝している。何も知らないのに「闇落ち」など言っていた自分を心底恥ずかしく思う。

そして今僕は若い医師からSNSで「闇落ち」などと言われることがある。

そんな時、あの先輩医師のことをいつも思い出す。

「しっかりと患者さんの思いを聞き、どんな選択も尊重し寄り添うこと。時には医学的正解とは全く逆方向に舵を切る勇気が医師に求められること」

今度は僕が後輩にこれを伝えていかなければならない。

ただこれは単純な知識の伝達ではなく、僕がそうだったように「実体験」から自分で気づいてもらうしかないのでとても難しいのだが…。