【気候変動 climate change】とは、人為的活動等に起因する【地球温暖化 global warming】などの気候の変化であり、関連して発生するハザードの問題解決にあたっては、過去の定量的評価に基づく将来の合理的(物理的)・蓋然的(統計的)予測によってリスク=ベネフィット分析を展開することで、相応の対策を検討するのが合理的です。
しかしながら【気候正義 climate justice】という名の下に、世界各国が、天文学的なコストをかけて、個別のデッドラインまでにネットゼロという義務を無批判かつ機械的に果たすという枠組みは、むしろ現世代に過剰な負担を及ぼす可能性が強く、必ずしも正義でとは言えないと考える次第です。
■ グレタ・トゥンベリ氏編著『The Climate Book』
2022年10月、『The Climate Book(邦題:気候変動と環境危機 いま私たちにできること』という、焼却時の温室効果ガスの大量発生を心配させるほどに重く分厚いハードカバー本がほぼ世界同時に各国版で発売されました。
本書は、「気候のしくみ」「地球はどう変わっているのか」「私たちにどう影響するのか」「どう対処してきたのか」「いま私たちがしなければいけないこと」という5部で構成されていて、【気候学 climatology】に関係する世界各国の学者・識者104人がエッセイを寄稿しています。また、各部のトピックに対応するように編著者である環境活動家のグレタ・トゥンベリ氏が全18本のキーノートを提供しています。
エッセイの論調は概ね画一的であり、地球環境の現状を終末思想のように悲観した上で、気候変動への対策として「できることは何でもやらなければならない」とする警鐘を鳴らしています。
論理的観点に立てば、「〜である」という述語をもつ科学的研究結果を根拠にして、「〜すべき」という述語で倫理的価値観を主張するものであり、「〜である」という述語の前提から「〜すべき」という述語の結論を論理的に導くことはできないとする【ヒュームの法則 is-ought problem】に真っ向から挑戦する壮大な教義書となっています。
彼らの画一的な倫理的価値観は、気候を変動させている人間は悪の存在、そしてその生産活動は悪の根源であり、とりわけ政治家と資本家は自分たちの私利私欲のために地球環境を悪化させて商売をしている存在であるかのように断罪しています。もっぱら彼らは愚民を啓蒙する気候正義の使徒的な立場に自らを置いているのです。
■ 気候正義
環境活動家が主張する気候正義とは、世界各国が、気候変動による負荷を正当に認識し、その軽減に対する責任を公正に分担し、損害に応じて公平に補償することを正義とする概念です。
その認識はステレオタイプ化していて、温室効果ガスの排出によって利益を得てきたのは先進国と新興国あるいは富裕層であり、気候変動対策に対する応分の責任と、気候変動による被害を強く受けている途上国あるいは貧困層に対する補償が必要であるとするものです。
この認識は、前提とする事実が真である限りにおいては【正義 justice】の原理に適っています(「正義」の定義)。先進国と新興国あるいは富裕層の有用的善に従った行動が途上国あるいは貧困層の有用的悪になるのであれば、それは【危害原理 harm principle】に従って与えた危害を補償するのが正義です。
しかしながら、現実世界はそれほど単純ではありません。気候正義には次のような重大な問題点が含まれています。
① 多くの論点において、前提が論理的に真であることが科学的に立証されていないこと
② 国という空間的単位を基準とする気候変動対策の責任分担の効率性が低いこと
③ 科学技術の時間的発展を無視したデッドラインの設定はリスクの過剰評価に繋がること
④ ネットゼロを善とする考え方に論理的根拠が薄弱なこと
⑤ 有用的善に依拠した正義が道徳的善に依拠した正義に混同されて独り歩きし易いこと
特に④⑤は、正義というよりは特定の善を至上命令とする【モラリズム moralism】的な思考によって生じる問題です。環境活動家は、しばしば、論理的な議論を阻害する【怒りに訴える論証 appeal to anger】によって気候正義を振りかざすことで大衆を従わせるのです。
■ 正義の独り歩き
社会において特定の【倫理 ethics】が支持されると、それは社会の【道徳 morality】となり、社会の構成員がこれに従うことを半強制されることになります。その道徳に従わないと悪の存在と見なされるからです。その意味で、専門家が自らを無謬の存在と認定し、束となって「〜すべき」という倫理を導いている『The Climate Book』は必ずしも客観的な文献とは言えません。
純粋な理学として気象の長期変動を対象とする気候学分野は、社会的ニーズが高い気象の短期変動を対象とする気象学分野とは異なり、人々の注目を集めてこそ発展が可能となる分野です。気候学の専門家にとって、自らの研究対象の問題をより深刻に語って強い警鐘を鳴らすことは、彼らの存在意義をよりアピールすることに繋がります。
重要なのは「〜である」という言説のみに着目し、「〜すべき」という言説については、それが専門家としての有用的善に基づく論理的帰結であるのか、一般人としての倫理的善に基づく倫理的帰結であるのかを見極めることです。後者の場合にはあまり意味がありません。
一方、自ら科学を実践した経験がなく、科学的な研究結果を懐疑的に批判する精神が欠如しているトゥンベリ氏は、専門家の主張を100%正しいとする【権威に訴える論証 appeal to authority】と政治家と資本家を悪魔化した【人格に訴える論証 ad hominem】と市民の感情を操作する【感情に訴える論証appeal to emotion】という非形式的誤謬を最大活用して自説を正当化しています。
環境活動家は自説を実現させてこそ承認欲求を満足することができ、マスメディアは商売することができます。彼らが語る「〜である」は学者の受け売りであり、基本的には「〜すべき」しか主張していないことに注意が必要です。
■ 専門家の暴走例
「〜すべき」を主張した専門家の暴走例として記憶に新しいのが、日本の「コロナ専門家有志の会」による東京五輪の無観客開催の提言でした。
東京五輪の直前、コロナ専門家有志の会は、当時の世界の常識に反するように「東京五輪は無観客開催が望ましい」と主張した結果、権威を無批判に信用した日本の世論は一色に染まり、東京五輪の無観客開催が決定されました。しかしながら、五輪直後の「人流」と「感染」にはまったく相関性は認められませんでした。
当時の専門家は、今では誰もが認識している「コロナの流行は変異株の発生によって生じ、人流とは無関係に収束する」という流行のプロセスを帰納的に認識することができず、「コロナの流行は気の緩みによって生じる」という非科学的俗説を本気で信じていたのです。
もしも当時に専門家が「気の緩み」なる非科学的な認知操作を継続的に行っていなければ、何の問題もなく五輪を有観客で開催できていたものと考えられます。当時のコロナ第5波の感染者数は第6波・第7波と比べれば、圧倒的に少なかったと言えます。そもそも当時ですら、RINZENもプロ野球も日本競馬会のレースも有観客で開催されていました。不合理なことに専門家は東京五輪だけに限って無観客を求め、権威論証に無抵抗な日本国民はその不合理な要請に対して無批判に従ったのです。
ちなみに当時、日本よりも圧倒的に感染者数が多かった米国では、MLBのオールスターゲームで盛り上がっていました。大谷翔平選手の活躍を期待して中継やダイジェストを観た日本国民は、スタジアムに詰め掛けた米国の大観衆が、マスクをすることもなく声援を送る姿を目にしていたはずです。
■ 日本国民を苦しめる気候正義
先述したように真の気候正義は理に適った正義です。しかしながら「気候正義」という言葉の悪用は正義に反する結果を招きます。
東日本大震災後、当時の菅直人首相は、脱原発と脱炭素社会と電力自由化による環境配慮が普遍的な善であり、その実行こそが正義であるかのように主張し、原発の停止、FIT制度の法制化、電力自由化の拡大と発送電分離というエネルギー政策の大改革を行いました。
しかしながら、この気候正義を振りかざした大改革はことごとく日本国民を苦しめる大改悪になったのです。
まず、原発停止による化石エネルギーの輸入拡大によって毎年数兆円の国富が産油国に流れると同時に温室効果ガスの排出量が増加しました。FIT制度により再エネのシェアは高まりましたが、再エネは供給力が天候によって激変するため、バックアップ電源である火力発電が空焚きして待機することになり、結果として、温室効果ガスはほとんど削減できませんでした。電力部門の温室効果ガスの排出量は2011年比でほぼ横ばい状態です。電力部門だけでも温室効果ガスのネットゼロは程遠い目標なのです。
FITによって利益を得たのは、ソフトバンクの孫正義社長のような潤沢なキャッシュフローを操作できる再エネ業者と太陽光発電システムを導入する余裕がある1割の富裕層でした。一方で9割の日本国民には再エネのメリットはほとんどなく、ひたすら再エネ業者と富裕層を補助するために、高額の再エネ賦課金を支払い続けています。まさに再エネ導入によって貧しい者から富める者へ富の移動が進行中したのです。
また、電力自由化によって、再エネのバックアップ電源にもなっていた石油火力発電所が再エネとの価格競争に敗れていくつも閉鎖しました。これによって天候不順時に供給力不足が発生することになり、卸電力取引所の流通量が減ることで電力料金が深刻なまでに高騰したのです。当然のことながら、この電力逼迫によって国民の生命維持に直結する停電リスクも増大しています。
さらに深刻なのが、環境アセスメントを必要としないメガソーラーの乱開発によって、自然景観が大規模に損なわれると同時に、パネル設置個所の法面掘削によって山体斜面の力学的安定性が損なわれて斜面崩壊が続発していることです。エネルギー密度が低い再エネは広域にわたって豊かな日本の自然を破壊しているのです。このような大規模な環境破壊を前提とする電源が持続可能なわけがありません。
■ 気候正義の罠
菅直人首相のエネルギー政策の大改革の弊害は現在になって顕在化していますが、実際には最初からほぼ予測されていました。しかしながら、気候正義という名の下に「原発は悪」「再エネは善」とマスメディアに擦り込まれてしまった日本国民は警鐘を聴く耳をもたなかったのです。
そんな中、最近の電力逼迫やエネルギー価格の高騰によって、多くの国民がマスメディアの呪縛から解放され、気候正義の象徴的存在であった反原発や再エネ拡大に疑問をもつようになりました。ここにきて、原発再稼働や再エネ批判は【聖域 sacred cow】ではなくなり、合理的な国民的議論が可能となったのです。
今後は、『気候正義の罠』と題したエントリーを不定期に投稿し、気象データの時空間統計解析等を交えながら、気候変動問題について積極的に論じて行きたいと考える次第です。