外務省の機密漏洩事件(いわゆる西山事件)は半世紀前の事件だが、西山が死去した今ごろ、ツイッターのトレンドのトップに上がっている。これが「レイプ」などというデマになっているのには驚いた。この発端は門田隆将氏の次のツイートだと思われるが、事実誤認である。
元ツイートの「外務相女性事務官を酩酊させ男女関係を結び、その弱みに付け込んで密約文書を持ち出させていた」という事実はなく、もちろん強姦などはなかった。これは最高裁判決も認めている。判決はこう書いている。
被告人[西山]は、昭和四六年五月一八日頃、従前それほど親交のあつたわけでもなく、また愛情を寄せていたものでもない前記B[蓮見]をはじめて誘つて一夕の酒食を共にしたうえ、かなり強引に同女と肉体関係をもち、さらに、同月二二日原判示「ホテルC」に誘つて再び肉体関係をもつた直後に、前記のように秘密文書の持出しを依頼して懇願し、同女の一応の受諾を[得た]
西山記者の取材に違法性はなかった
まず大前提として判決は、西山の取材行為には、強姦や強要など一般の刑罰法令に触れる違法性はなかったと認定している。その上で「取材対象者の個人としての人格の尊厳を著しく蹂躙する」取材方法は認められないとして、国家公務員法111条違反(そそのかし)で有罪とした。
その「人格の尊厳を蹂躙する」行為とは何か。判決には「かなり強引に」という言葉が1ヶ所だけ出てくるが、1971年5月18日の最初の密会の翌日、蓮見は電話で2回目の密会の場所(ホテルニューオータニのバー)を指定した。そして判決にも書いているように、5月22日にまたホテル山王で密会したのだ。性行為を強要された女性が、次回の密会の場所を指定するだろうか。
その後も、指定された資料を「ばらばらに旅館に集まって渡した」と週刊誌の手記に書いている。これも明らかに自発的に集まったものだ。澤地久枝『密約』は、蓮見が肉体関係を強要されたという供述に疑問をもち、彼女と半年ぐらい肉体関係のあった男性X氏の証言として次のように書いている。
思いがけない間柄になってから、ある日外務省に呼ばれてゆくと、あのひと[蓮見]は気さくな口調で「ウイスキーがあるのよ、もってゆく?」と聞いたんです。上司へきたお歳暮がだぶついていて、そのお裾分けだといっていました。ジョニイ・ウォーカーの黒ラベルで、当時はいまよりずっと高級品でした。
男がそそのかしたのではなく、そそのかされるような状況、そして呼び出しては会いつづけるつなぎのように贈りものをする。私も若かったんですね。西山さんの場合どうだったか知りませんが、それが秘密文書だったということも言えるんじゃないですか。
渡辺恒雄も「西山君が帰宅しようとする蓮見事務官を自社の車で送ったところ、彼女が「飲みたい」と言い、したたか酔った段階で「一休みしましょう」と連れ込み宿に誘い入れた」と書いている。誘惑したのは蓮見のほうだったのだ。
西山もNHKのインタビューに、こう答えている。
私からくれくれ言ったわけではない。自発的に持ってきて、見せてくれたわけ。私は彼女に事態の説明をちょっとした。彼女はそれを聞いていただけ。資料を持ってこいとか強要したということは1回もない。ないけども向こうから進んで持ってきた。それまで多くの特ダネを取っていたが、電信文をみたことは初めてだった。
その中に問題の密約があったが、それは国家機密ではなかった。沖縄返還に当たって日本側が3億2000万ドルの費用を出すことは沖縄返還協定に書かれており、その中に問題の土地復元費用400万ドルも含まれていた。この点は最高裁も認めたが、日本側から文書が出ることは外交交渉を進める障害になるとした。
門田氏のいう週刊新潮の記事は、この最高裁判決の前に(すでに執行猶予になった)蓮見が、離婚協議を有利に進めるために自分を被害者に仕立てたものだ。そこでは法廷の供述から一転して意に反して西山に性交を迫られたように書いているが、これは慰安婦デマと同じ嘘である。
外務省は密約を隠蔽して検察は問題を肉体関係にすり替えた
この判決は、いま読んでも意味不明である。肉体関係の事実認定のコアの部分では、こう書いている。
被告人は、当初から秘密文書を入手するための手段として利用する意図で右Bと肉体関係を持ち、同女が右関係のため被告人の依頼を拒み難い心理状態に陥つたことに乗じて秘密文書を持ち出させたが、同女を利用する必要がなくなるや、同女との右関係を消滅させその後は同女を顧みなくなつたものであつて、取材対象者であるBの個人としての人格の尊厳を著しく蹂躙したものといわざるをえず、このような被告人の取材行為は、その手段・方法において法秩序全体の精神に照らし社会観念上、到底是認することのできない不相当なものであるから、正当な取材活動の範囲を逸脱しているものというべきである。
「人格の尊厳を著しく蹂躙した」理由が「同女を利用する必要がなくなるや、同女との右関係を消滅させその後は同女を顧みなくなつた」というのは、安っぽいメロドラマみたいな話だが、これしか理由は書いてないのだ。
その理由は明白である。検察が国会で密約が問題になった1972年3月28日からわずか1週間後に西山と蓮見が逮捕され、半月後に「ひそかに情を通じ」という起訴状が出たのは、この密約を隠蔽するための国策捜査だったからだ。当時の特捜検事、佐藤道夫は「マスコミに痛い目にあわせてやれ」という思いからこの異例の表現を加えたが、その大きな反響に驚いたという。
この訴訟は第1審(東京地裁)では蓮見は有罪、西山は無罪となったが、第2審で西山は有罪となり、最高裁は上告を棄却した。公務員への取材を機密漏洩のそそのかしとして有罪にすることはきわめて重大だったが、判決はほとんど根拠を示していない。密約から目をそらせるという目的はすでに達していたからだ。
外務省は一貫して密約の存在を否定したが、2009年に民主党政権の調査で密約が存在したことが明らかになった。しかし人々の脳裏に焼きついたセックス・スキャンダルの印象は今も残り、日米関係の歴史をゆがめている。
あとは微妙な問題もあるので、アゴラサロンで。