先ず、コラムのタイトルを少し説明してから話を始めたい。
「政教分離」といえば、フランスの「政教分離」を意味するライシテを思い出す。フランスは1905年以来、ライシテを標榜し、国家は如何なる場合でも宗教には関与しないという「宗教に対する中立性」をその柱としてきた。ただし、時間の経過につれて、神を侮辱したとしても批判を受けたり、処罰されることがないと理解され、他の国民の宗教性を完全に無視できるといった暴論まで飛び出してきた。例えば、マクロン大統領はパリの風刺週刊誌「シャルリー・エブド」がイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載した問題で、「わが国には冒涜する自由がある」と弁明したため、イスラム国で大きなブーイングが起きたことがある。
「政教分離」は逆にいえば、宗教は国家から如何なる干渉も受けることなく、宗教活動ができることを意味する。「宗教の自由」は保障されていることになる。ところで、神への「冒涜の自由」は認められるが、その神を信仰する個人の名誉棄損は許されない、という理屈は、人間中心主義を徹底化した考え方であり、神仏への極端な排他主義に通じる。フランス革命は世俗主義、反教権主義を主張し、人間の権利を蹂躙してきたローマ・カトリック教会とそれを背景にした王制貴族社会への抵抗が強かった。
一方、「シンフォニア」という言葉は、ギリシャ語で「シン」は一緒に、「フォニア」は音を意味し、通常は合奏曲を意味する。交響曲と同義語だ。ここでは、「国家」と「教会」の調和を意味し、正教会でよく使われてきた表現だ。ビザンチン帝国まで遡る思想だという。「政教分離」とは180度異なる内容だ(スイスの神学者シュテファン・クーベ氏、スイス公共放送ニュースレターから)。
完全な「政教分離」が難しいように、正教会でも「シンフォニア」が実現されたことはなく、理想論の域を越えていない。例えば、ロシア正教会を見ると、国家元首のプーチン大統領はロシア正教会最高指導者、モスクワ総主教キリル1世とは良好関係を築き、ウクライナ戦争でも双方が相手の主張を支援している。一見、シンフォニアのようだが、プーチン大統領とキリル1世の関係は対等ではないことは明らかだ。プーチン大統領がロシア正教会を自身の権力掌握の道具に利用している、というのが現実だろう。実際、ロシアでは憲法上、欧米諸国と同様、政教分離を原則としている。
ところで「政治」と「宗教」は本来、対立概念ではない。直接民主主義であろうと、間接的民主主義であろうとも、「政治」は基本的には主権者の国民の願い、意思を実行する行政の世界だ。一方「宗教」はその国民の精神的世界に深く関わる。人間としての生き方、善とは何か、人生の苦海をどのように乗り越えていくかなどを教える世界だ。「政治」も「宗教」も人間の生きる道に関わっている。良き国民なくして良き政治はできないし、良き政治がなければ、国民は苦労する。だから、「政治」と「宗教」が「分離」するのではなく、相互支援する関係、「シンフォニア」がやはり理想的といえるわけだ。
聖職者の未成年者への性的虐待問題が頻繁に発覚して以来、国の司法が教会の指導に干渉するケースが増えている。欧州の代表的カトリック教国フランスで、1950年から2020年の70年間、少なくとも3000人の聖職者、神父、修道院関係者が約21万6000人の未成年者への性的虐待を行っていたこと、教会関連内の施設での性犯罪件数を加えると、被害者総数は約33万人に上るという報告書が発表された時、教会内外に大きな衝撃を与えた。その時、フランスのジェラルド・ダルマナン内相(当時)は仏カトリック教会司教会議議長のエリック・ド・ムーラン・ビューフォート大司教とパリで会い、教会の「告白の守秘義務」について話し合っている。
平常の場合、国家の教会への干渉といわれかねないが、さすがにダルマナン内相と司教会議議長と会談を問題視する声はなかった。教会は聖職者の不祥事を隠蔽してきたが、国の司法が介入して、事件の核心を明らかにしてきたわけだ。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」といって逃げるわけにはいかない。神の宮、教会に国家権力が介入せざるを得なくなったということは、教会側に問題があったからだ。
一方、政治の世界でも家庭の崩壊、性倫理の荒廃、政治・経済の腐敗などの社会問題を如何に解決するかが大きな課題だ。政治が宗教を如何に無視し、迫害しても人間の中にある宗教性まで抹殺することはできない。だから、国の復興を願う政治家であればあるほど、宗教の世界を重要視するものだ。
いずれにしても、契機がどのようなものであったとしても、「政治」と「宗教」の両世界が出会い、相互足りない点を補完するシンフォニアが必要となってきている。繰り返すが、「政教分離」は本来、「宗教の自由」を擁護するという狙いがあった。一方、シンフォニアは(政治と宗教が)一緒になって合奏することを意味する。両者は同じ目的を有しているのだ。健全な心と体があってこそ立派な人間として成長できるように、「政治」と「宗教」が調和したシンフォニーを奏でる世界こそ、人間が久しく願ってきた理想郷だろう。
参考までに、英国の数学者で人工知能の父といわれるアラン・チューリング(1912~54年)は走りながら考える人間だった。彼は「精神」と「肉体」の関係を考え続けてきた。死後、精神はどこに行くか、肉体の役割は、などだ。最終的に「精神も肉体がないと機能しない」と考え、両者は一つだと理解したという。ちなみに、彼の走力はオリンピック大会のマラソン競技に参加できるほどのレベルだったという(独仏共同出資放送局「ARTE」のドキュメント番組「チューリング」から)。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年3月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。