少数エリートが推進するスマートシティという名の強制収容所?

明林 更奈

gremlin/iStock

日本の自治体も参加するスマートシティ

元ゲリラ活動家の左派大統領、ダボス会議で資本主義否定のスピーチに引き続き、ハートランド研究所の動画“In the Tank”第382回ならびにダボス会議のセッション「Bold New Cities Take the Stage」を取り上げ、世界のリーダーを自認する大富豪・エリート層が取り組みを進めるスマートシティなるものについて見ていきたい。

スマートシティとは、地球上のCO2排出を減らすために、情報通信技術ならびにAI等の最先端テクノロジーを最大限活用することで、高い効率性ならびに利便性を実現し、これ以上ないくらいに暮らしやすい、極限までの便利さを実現した都市を作ろうという構想だ。そんなスマート(=便利な)シティでは、住民が必要とするすべての活動やニーズが最新テクノロジーによって的確に捉えられるため、高度な都市管理・運営が可能だとされている。

毎年、世界中のエリート層や大富豪らが集まるダボス会議を開催することで知られている世界経済フォーラムは「G20グローバル・スマートシティ・アライアンス(GSCA)」という構想の統括をも行っている。このGSCAは、「倫理的」で「責任ある」スマートシティの推進を目的としており、2019年10月には横浜で立ち上げのためのイベントが開催され、その模様も公開されている。

GSCAを構成するのは、都市や地方自治体、大手企業、新興企業、研究機関、市民社会団体(都市と機関合わせて合計20万以上の単位)となる。また、世界中で36以上の都市が実験都市として参加しており、日本からは加賀市、加古川市、浜松市、前橋市が名を連ねている

このような近未来的で斬新なイメージを聞かされると、スマートシティにぜひ住んでみたいと胸躍らせる人もいるかもしれない。だが、一見ユートピアのように宣伝されるスマートシティの実態を知れば知るほど、手放しで歓迎できるようなものではない現実が見えてくる。

砂漠に建設される現代版「強制収容所」

ダボス会議で誇らしげに紹介されたスマートシティ構想のプロジェクトの一つに、サウジアラビアの北西部に展開されている、ネオム(Neom)と名付けられた非常に大規模な都市開発プロジェクトがある。そのネオムのもとに建設が進行しているのがザ・ライン(The Line)という直線型高層都市だ。

ザ・ラインは全長170キロ、幅200メートル、高さ500メートルの居住用構造物を作るという構想であり、その中の住人は学校や病院、買い物などの全てのニーズに対し自宅からわずか5分でアクセスできると謳っている。

全長170キロというのは日本で言えば東京駅を出発して静岡駅を超えた少し先の距離となる。また高さ500メートルの建物というのは、高さ634メートルの東京スカイツリーより少し低いものの、最上階の展望台(450メートル)よりもさらに高く、また幅200メートルといえば、国会議事堂の幅とほぼ同じくらいだ。ダボス会議のセッション動画を見れば一目瞭然だが、ザ・ライン(線)とはその名の通り、巨大な薄い壁のような構造物が170キロにわたって砂漠の中を一直線に貫く都市とされる。まさに現代版「万里の長城」だ。

こんな巨大人工構造物に対するハートランド研究所(The Heartland Institute)の研究員の指摘は鋭い。

ザ・ラインのような計画が正当化されるのは、気候変動に伴いエネルギーを効率的に使わないといけないという考えを起点にしたものだ。

ザ・ラインでは徒歩5分で全てのニーズにアクセスできる、とのことだが、これらの都市の計画者は個々人のニーズをどのように把握するのだろうか。自由な選択肢を与えてもらえず、何を買うのか、強制されるのではないか。さらに、小規模なスペースに多くの人を居住させようとするのは、人々をより監視しやすくするためではないか。

気候変動については、「二酸化炭素などの温室効果ガスが排出されて引き起こされるものであり、その対策は急務である」ことが喧しく言われるようになって久しい。一方で、このような言説は政治的な色合いを帯びており科学的には正しいとは言えない、という見方も多くなされている(この点については機会があれば別の論考で取り上げたい)。

そもそも、依然として議論の余地が多く残されているそんな気候変動対策を絶対正義と決めつけ、それを盾に人類の社会生活のあり方を大きく変えようとするという発想自体が極めて傲慢だと言わざるを得ない。

スマートシティという名の「強制収容所」

サウジアラビアに建設中のザ・ラインには、なんと900万人もの人々が居住することを想定しているらしいが、想像するに高さ500メートルの空間は上下に何百階層にも区切られ、幅200メートルの構造物もまた東西南北に何万、あるいは何十万という区画に区切られ、人々はその中で「誰か」に指定された空間のみで生活することになるのだろう。

そんな一直線の構造物の中では、上下左右の両隣を訪れたところで無機質な風景や構造はそれほど変わらないだろう。そんなところに押し込められた住人たちは、そのうち他の区画に訪れることに興味を失うのではないか。最上階や窓際の生活居住空間以外は、日光さえ当たらないかもしれない。まさに「人間蚕棚」である。

この「スマート」な構想は、徒歩5分で「全てのニーズ」なるものにアクセスできるから便利さと、根拠曖昧な気候変動対策を謳っているわけだが、昨今のコンビニ文化ではないが、そもそもなんでもすぐに手に入ることが人間にとって至上の価値なのだろうか、という根本的な問いかけはまったく感じられない。息をして生存するために必要な最低限のニーズはあるのかも知れないが、人間が人間であるために必要な自由や尊厳、さらには何千年もの歴史の中で私たちが育んできた文化という発想はまったくなさそうなのである。

こんな、人間を家畜同然に扱う発想が根底にあるとしか思えないスマートシティが目指す「スマートさ」とは、一体誰にとってのものなのだろうか。できるだけ人々を効率的に管理し、無駄なものは一切住民に与えないという、ダボス会議に参加できるような大富豪やエリート権力者らにとっての「スマートさ」を意味するのではないだろうか。

世界経済フォーラムが謳う「グレート・リセット」の本質とは、まさに「人類文明の壮大(グレート)なる仕切り直し(リセット)」を通じた人類の頭数管理ではないか。人々の居住空間がスマートシティに徐々に取ってかわることになり、やがて大半の人類の居住空間がスマートシティに限定されるような事態になるようなことになれば、スマートシティ構想は実は体のいい「強制収容所」への人類の強制移住なのではないかと危惧せざるを得ないだろう。

自由に排泄さえできない「スマート」な構想に名乗りを上げる日本の自治体

「万里の長城型強制収容所」ともいえるザ・ライン900万人もの人間を一つの巨大構造物に同居させることは、インフラや安全衛生の面から見ても、これまで世界中の大都市が発展を重ねる歴史の途上で経験し、試行錯誤の中で解決してきた様々な問題が生じるであろうことは想像に難くない。

例えば同じ構造物住む900万人が一気に生活用水を流せば、あちこちで下水管に詰まってしまい、溢れかえることだってあるに違いない。しかしスマートシティでは、そんな状況を回避するために、住民に対して極端なマイクロマネジメントが強いられる可能性があるというから驚きだ。この点に関し、ハートランド研究所の研究員からは以下のような指摘がなされている。

スマートシティの実験都市のなかには、下水道のシステムを監視し、下水道に流される量が多くなったことから、地域住民にトイレを流さないようにということがメッセージで送信されることもあるそうだ。スマートシティでは、トイレに行くことすら自由できなくなる可能性がある。

900万人もいれば、同時に「尿意便意を覚える」人たちは何十万人もいるわけだ。そんな時に、下水管の修理が必要だからと言って、「用を足すな」と言われてしまうような都市計画のどこが「スマート」なのだと言いたくもなる。仮にトイレで用を足せなくなった人たちが我慢できずに、それこそ何百万人もの同居人が押し込められている構造物のあちこちで用を足したらどうなるか。

問題は臭いだけではない。衛生環境は一気に悪化し、そこから一気に疫病も流行るであろう。900万人が互いに距離を取らず、ぎゅうぎゅうの区画に収容されているわけだから、ウイルスの感染拡大も早いに違いない。そうなったらこの「スマートシティ」は一夜にして「ウイルス感染シティ」に変わってしまいかねないわけだ。

GSCAの実験都市のなかに日本からは加賀市、加古川市、浜松市、前橋市が含まれているとのことだが、これらの都市の住民がトイレを流したい時に流せず、疫病が蔓延してしまうという事態にならないことを祈念したい。

スラム化しかねないスマートシティ

 このように下水一つとってもさまざまな問題が見えてくる「スマート」な都市構想であるが、ハートランド研究所の研究員は、スマートシティが展開された後の都市そのものの持続可能性についても警鐘を鳴らす。

アパートも費用をかけてメンテナンスしない限り、スラムになりかねない。1960年代、シカゴにカブリニ・グリーン(Cabrini-Green)という公営住宅建設のプロジェクトがあった。しかし、公営住宅は建設されたものの、その地域は貧困と犯罪の温床となってしまい、40~50年後には完全に解体されることとなった。元々は調和がとれたユートピアを作る計画だったものが、実行後にとんでもない代物になる事例は多い。

カブリニ・グリーンの件ならびに、ザ・ラインは当初2025年に完成予定だったものの5年遅延する予定と聞いた時に、ふと筆者の頭をよぎったのがスペインにおけるケースだ。

スペインでは2008年の金融危機により、多くの投機的な大規模都市計画プロジェクトが停止した。プロジェクトの多くはそのまま放置されたことから、スペインは塩漬けとなったプロジェクトが国中に散乱するという悲惨な事態を抱えることになった。他国でも同様の事態は発生したが、スペインは規模の面で被害がもっとも大きかったと言われている。

2016年に出版された書籍The City That Never Wasでは放棄された廃墟となった都市計画プロジェクトとその写真が、詳細な解説とともに数多く紹介されている。サウジアラビアにおけるザ・ラインのような計画が途中で頓挫したりメンテナンスがうまくいかなくなった場合にどのような悲惨なことになるのか、世界に多く存在するこのような「黙示録」を見れば大体の想像はつくのではないだろうか。

海外ではスマートシティに対する抗議行動も

 基本的な自由や人としての尊厳どころか、生理現象まで制限されかねないこんなスマートシティを果たして人類は受け入れるのであろうか。狭いマンションやアパート暮らしに慣れている我々日本人でさえ、大半の人は拒否反応を示すに違いないと思う。狭いスペースでの生活に慣れていない米国人などは、一時たりとも我慢できないに違いない。

実際、ハートランド研究所の研究員は、「米国では、人々は自分のスペースや土地を持つことに慣れているので、すぐにこのようなスマートシティに飛びつくようなことにはならないだろう」と語っている。

しかし、程度の差こそあれ、米国もスマートシティとは決して無縁ではない。米国でスマートシティの先陣を切った都市の一つにオレゴン州ポートランド市があり、この取り組みについては日本の市民大学からも視察が行われていた程であった。

そんなポートランド市が最近著しい人口流出に悩まされているということは注目に値するだろう。実際、ポートランド市の10年の都市計画を総括した論文においても、同市の取り組みが手放しで賞賛されているわけではない。

さらに、オハイオ州クリーブランド市においてもスマートシティの取り組みが進められているが、同市は2023年2月に危険物積載列車の脱線事故があったオハイオ州東パレスチナの近郊都市でもある。この列車事故で、周辺の土壌や空気、さらに飲み水などが著しく汚染されたと言われており、これを契機に帰る家を失った東パレスチナの住民は、クリーブランド市が薦めるスマートシティに「収容」されることになるのではないかとの懸念を示す識者もいる。

さらに米国外に目を向けると、既に英国のオックスフォード市のスマートシティ計画に対し「自宅から15分圏外への移動の自由がなくなるのではないか」「暗黒計画だ」として抗議運動も起こっている。

スマートシティは少数(FEW)エリートによる支配の手段?

スマートシティの背後にあるエリート層の目論見は何なのか。ハートランド研究所の研究員の見解を紹介したい。

ザ・ラインのようなプロジェクトが、王族が鉄拳を振るう権威主義的な中東で行われていることに注目すべきだ。このようなプロジェクトの目的は、人々をよりコントロールすることにあるのではないか。ボリシェビキ時代(ロシア革命)から数えること100年以上、支配者たちは人民支配のための「壮大なる計画」を試み、様々なことを人々に強制してきたが、それらは悉く失敗してきた。支配者自身に全ての計画を展開するだけの力はない。問題は、失敗の過程で何億人もの人々が犠牲になるということである。

一般市民向けにザ・ラインのような計画都市を建設する一方、世界経済フォーラムに集うような大富豪やエリート層らは自分たちのバケーション用として、ドバイに広大な人工リゾート「パーム・アイランド」なる娯楽施設を作っており、そこはすでにキャンセル待ちが出るほど大盛況だとも言われている。

パーム・アイランドは清潔で広々と解放感がある環境であり、個々のプライバシーも守られる、まさにスマートシティとは真逆のタイプの地上の楽園のようだ。気候変動対策のためにエネルギー効率性を上げ、CO 2を減らすべしなどというお題目など、ここではまったく考慮されていない。

そうして自分達だけは悠々自適の豪奢な生活を堪能するエリートたちによって、極めて効率的に、つまり「スマート」に我々自身を管理・監視させるようなスマートシティを受容することは、みずから好んで人間らしさの象徴たる自由と尊厳を捨て、「蚕棚型強制収容所」の住人になろうとするようなものではないだろうか。

日本の地方自治体も、「環境にやさしい」や「便利だ」といった美辞麗句に飛びつく前に、そんなスマートシティへの移住が、本当に人間の生活を豊かに幸せにするものなのかをしっかりと考える必要があるように思う。

ところで、この原稿を書くにあたり何度も世界経済フォーラム(World Economic Forum、略称WEF)の文字を目にするなかで、ふと、WEFを右から左に読んでみたところ、背筋が凍る思いをした。F・E・Wと繋げると「FEW(かなり少ない/ほとんどない)」となるのだ。

「WEFと書いてFEWと読む、その心は少数の、少数による、少数のための人類完全支配のためのフォーラムである」と考えるのは、筆者の妄想が過ぎるだろうか。