私が世田谷区議会議員として、この4年間保坂区政と対峙してきて思うことは、保坂展人という政治家は、巷間言われているようなリベラルな政治家ではなく、実は“ガチ保守”のそれではないか、ということである。
ここで言う「保守」は、エドマンド・バークだとか福田恒存などが体現するものではさらさらなく、俗に「うちの上司は保守的だ」と言われるような意味合いである。
最近、ようやくメディアで取り上げられるようになった、世田谷区史の編纂問題。これは、執筆をお願いしている専門家の著作権を、世田谷区が取り上げるというものである。
世田谷区史の著作権譲渡に反対した学者に執筆させないと決定
東京新聞 TOKYO Web https://t.co/4t6jDvYLw1
執筆者の許可がなくても区側で原稿を修正できる「著作者人格権の不行使」を含めた著作権の譲渡を求められた学者は「行政の解釈で都合よく歴史を書き換えることが可能になる」と訴えていた。
— 東京新聞編集局 (@tokyonewsroom) April 3, 2023
「これに同意しろ」と区が執筆者に迫って、41人中39人が“屈服”。1人は辞退したが、最後まで闘っていたのが青山学院大学の谷口雄太准教授だった。しかし、世田谷区は谷口准教授に執筆させないことを決定し、排除。元締めの保坂区長は「一番よい形での解決を望んでいる」と傍観するだけ。これが、表現の自由を掲げる“自称”ジャーナリストの実体である。
さて、次はどうだろう。これこそ、“自称”ジャーナリストの面目躍如ではないか。
世田谷区長記者会見でフリーランス記者が排除された問題について、11月21日の会見で保坂展人 区長は頭を下げて謝罪。しかし、独自調査した内容を踏まえれば、世田谷区によるフリー記者差別は今も続いていることが判明しました。https://t.co/ZYHJSdR9gy #theletter
— 犬飼淳 (@jun21101016) November 23, 2022
区長会見にフリーのジャーナリストを入れない、という問題である。詳しくはこの犬飼淳氏の記事を参照して欲しいが、ここまでくると、自称するのもおこがましいレベルである。保坂区長自身が、政治家になるまでは、フリーの立場で活動してきたくせに、権力者となるとこの体たらく。よくある話かもしれないが、それで片づけてよいという謂れはない。
もう多くの人は忘れているが、保坂区長はもともと「教育ジャーナリスト」を名乗っていた。しかし、私が議員になってしばらくすると、いつの間にか「教育」を外して「ジャーナリスト」と称するようになった。その理由は詳らかではないが、私はある推測をしている。
2017年、世田谷区がジャズ・トランぺッターの日野皓正氏に指導をお願いしていた「ドリーム・ジャズ・バンド」において、日野氏が子どもを公衆の面前でビンタする事件が起った。これはワイドショーも大きく取り上げて騒動となったが、保坂区長はこれを「体罰に差しかかっていく、ギリギリ手前だった」などとごまかした。教育ジャーナリストの保坂区長は、この事件が起こる以前、こういうことを言っていた。
この30年間、日本社会には根強い「体罰容認論」がある。今は息をひそめていても、必ず「愛のムチは必要だ。殴ることで子どもは変わっていく」という主張が表面に出てくる。この際、なぜ体罰という名の暴力を容認してはならないのかを、徹底的に掘り下げて中途半端な容認論を打ち砕いておくべきだ。
— 保坂展人 (@hosakanobuto) January 25, 2013
あまりに自語相違しているものだから、さすがに「教育」の看板は降ろしたのではないか、と私は思っている。
以上、3つの例を取り上げたが、これらが保坂区長でなく、自民でも維新でもよいが、政治的な意味での保守政治家がやっていたら、どういう評価になっているかは、想像に難くない。そういう意味では、保坂区長は政治家としての演出が上手だと言える。
しかし、この“なんとなくリベラル”のお面には、問題が生じても現状を追認するだけの、“ガチ保守”の素顔が潜んでいるのであり、世田谷の風土が良質なリベラルにあるとしたら、保坂展人という政治家こそ、本来は許容できない存在なのではないか。
残る“自称”ジャーナリストもさることながら、いよいよ区長の肩書も返上すべき時が来ていると強く感じる。