『論語』から学ぶべき人間力向上のためのエッセンスは何かと問われれば、私は「君子の必修徳目である五常」「最上の徳としての中庸」「義利の辨(べん)」の三つだと思います。
第一に「君子の必修徳目である五常」。孔子を始祖とする儒学では、人間力を高めるために「五常…仁義礼智信」をバランス良く磨くべしとして、「修己治人…己を修めて人を治む」を実現すべく、此の五点夫々にレベルが高いことを以て徳が高い人物だとされています。
「仁」とは、集団社会にあって最も基本となる徳目です。「仁は徳の光なり…仁は徳のなかの最も立派なものである」(『韓非子』)、「仁とは人なり…仁の徳をもっていればこそ、人間である」(『中庸』)と言われますが、孔子にとっても仁は「君子」と並ぶ大変重要な、言わばキーコンセプトであります。孔子曰く、「君子、仁を去りて悪(いず)くにか名を成さん。君子は食を終うるの間も仁に違(たが)うこと無し。造次(ぞうじ)にも必ず是(ここ)に於いてし、顚沛(てんぱい)にも必ず是に於いてす」(里仁第四の五)ということで、「君子は、仁を行う以外のことで名声を得ようとは思わない。君子はいつまでも仁と共にあり、たとえ僅かな時間でも、つまずき倒れるような時もそうでなくてはならない」のです。
次に「義」とは、人間の行動に対する筋道です。可否判断の基準であり、集団生活に欠かせぬ規範・規則を言います。「礼」は二側面を有し、エチケット&マナー(礼儀作法)及び秩序の維持を意味します。我々が生きるヘテロジニアスな世界を円滑に機能させてくれるもので、礼は仁の実践に不可欠です。「智」とは、人間がよりよく生きるための智慧であります。理想実現に向けた未来への創造こそ、智の徳に依るものです。『論語』も二千数百年の歴史の篩に掛けられ、世界中で今なお読まれている書物であって、智を磨くには最適だと思います。時空を超え精神の糧となる古典を中心した良書を深く読み込んで、私淑する人を得その人を出来る限り吸収して行き、得た学びを知行合一的に日々生活の中で錬磨し実践して行くのです。
そして「信」とは、集団生活において常に変わることのない不変の原則です。之は他者との関係も含んでいて、自分に関わる上記四常とは異なります。孔子は君子になるための絶対条件として信を捉え、信につき非常に重きを置いています。それは例えば、「人にして信なくんば、其の可なることを知らざるなり」(為政第二の二十二)という言にもよく表れています。つまり孔子は、「人間関係、人間の社会は信義に基づいて成り立っている。信義なくしては人間関係も社会も成立しない」と言っているのです。為政者に対する不信、人間への不信、友人への不信、親子・兄弟・夫婦間の不信――こうした不信に終始するならば、人は此の世に一刻も生きては行けなくなります。「信なくんば立たず」(顔淵第十二の七)です。
第二に「最上の徳としての中庸」。孔子は「中庸の徳たるや、其れ至れるかな」(雍也第六の二十九)と言うぐらい中庸を最高至上の徳として、真善美・知情意・詩礼楽等あらゆる面でバランスの取れた人物を君子として尊び、自身も此の最上の徳の境地に近付こうと修養を積み重ねました。
中庸の徳は極めて難しく、中々若くして身に付けられません。また抽象的な概念であるだけに、その考え方も簡単には理解できません。平たくは、常時変わらぬ心(恒心)を持って全てを受け入れながら、一歩前に進んで行くのが中庸であるとも言えましょう。中庸とは、「無難」や「折衷」あるいは「間をとる」といった概念とは似て非なるもので、西洋哲学の「正反合」の「合」に当たるものです。より高次元での合に達すべく此の正反合を進む中で、次第に中庸(合)の域に達してくるのではないかと思います。
孔子は、中庸の精神を様々な形の中で持ち続けることを非常に大事にしていました。智と礼のバランスで一例を挙げますと、『論語』の「雍也第六の二十七」に「君子、博く文(ぶん)を学びて、これを約するに礼を以てせば、亦以て畔(そむ)かざるべきか」とあります。之は、「君子は広く学んで知識や教養を身につけて、礼によってそれらを集約して自分の行動を律していく。そうすれば道を外すことはない」といった意味になります。集約するとは、その時代の慣行・習慣に沿うよう形作り実行するということです。
トップは、恒心とバランス感覚を備えた人物でなくてはなりません。孔子の君子像としては、一芸に秀でるだけでなく、幅広くその能力を発揮し、一定の型にはまらない人物と言えましょう。何か一つの特性に偏っていると、臨機応変万事に対応できません。またトップが偏った視点を持っていると、部下の能力を公明正大に評価できなくなります。「君子は器(うつわ)ならず」(為政第二の十二)で、器を使うのが君子なのです。
『論語』の「子罕第九の四」に、「子、四(し)を絶つ。意なく、必なく、固なく、我なし」とあります。孔子は中庸の徳を養うべく、「私意がない、無理を通すことがない、物事に固執することがない、我を通すことがない」ことが大事だと考えて、「意必固我」を意識的に行わぬよう己を律し、大変バランスのとれた人物に出来上がりました。「学んで」「思うて」(為政第二の十五)己の視野を広め思考を深め、意必固我を遠ざけて排すことは、義礼智仁に繋がる修養の第一項目であります。
第三に「義利の辨」。南宋の思想家・陸象山(りくしょうざん)は白鹿洞書院での講義で『論語』の一章、「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る…物事を判断する時、君子は正しいかどうかで判断するが、小人は損得勘定で判断する」(里仁第四の十六)を講じ次のように述べました――人の喩るところはその習うところによる。習うところはその志すところによる。義に志すか利に志すかによって、ついに君子となり、小人となるのである。
中国古典の書には、義利の辨として「義」と「利」ということが沢山出てきます。『論語』でも上記の他、「利を見ては義を思い…利益を前にしても大義を考え」(憲問第十四の十三)とか、「利に放(よ)りて行えば、怨み多し…利害ばかりで行動すれば、必ずや多くの怨恨が生まれるだろう」(里仁第四の十二)といった具合に、孔子は此の二字につき何度も触れています。
孔子曰く、「君子、義以て質と為し、礼以てこれを行い、孫(そん)以てこれを出だし、信以てこれを成す。君子なるかな」(衛霊公第十五の十八)ということで、「君子は道義を本とし、礼によって行い、謙虚な態度で物を言い、終始偽りのない信を貫いて事を成し遂げる。こういう人物が真の君子である」のです。
以上『論語』のエッセンス三点、「君子の必修徳目である五常」「最上の徳としての中庸」「義利の辨」につき述べてきました。君子を目指すべく我々は四を絶ち、人間力の源泉とも言い得る五常を身に付けて行きながら中庸を保ち、義に志すことが極めて大事なのです。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2023年4月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。