テロリズム称賛発言
安倍晋三元首相の暗殺事件をめぐって「何ら一矢報いることさえできなかったリベラル市民として、せめて暗殺が成功して良かった」と発言して炎上した島田雅彦氏は『夕刊フジ』の質問に回答する形で反省の弁を述べましたが、その内容は「誤解」という【被害 damage】を社会に与えたことについては認めたものの【責任 responsibiliy】については認めない典型的な【弁解 excuse】と言えるものでした。
テロの成功に肯定的な評価を与えたことは公的な発言として軽率であったことを認めます。殺人を容認する意図は全くありませんが、そのように誤解される恐れは充分にあったので、批判は謙虚に受け止め、今後は慎重に発言するよう努めます。
「暗殺が成功して良かった」という島田氏の発言は、言論に対する暴力的封殺であるテロリズムの結果を肯定する発言であるばかりか、人殺しを称賛するものでした。この簡潔な主張に「誤解」を招く余地など存在せず、「慎重に発言するよう」努めたところでその内容は変わるものではありません。島田氏はすぐに弁解を開始します。
ただ、安倍元首相襲撃事件には悪政へ抵抗、復讐という背景も感じられ、心情的に共感を覚える点があったのは事実です。山上容疑者が抱えていた旧統一教会に対する怨恨には同情の余地もあり、そのことを隠すつもりはありません。
さらに政権と旧統一教会の癒着を暴露する結果になったのも事実です。今回の「エアレボリューション」での発言はそうしたことを踏まえ、かつ山上容疑者への同情からつい口に出てしまったことは申し添えておきます。
思考停止のルサンチマン
日本の左翼は「リベラル」を自称しますが、実際には【リベラリズム liberalism】の真逆と言える存在であり、偏狭な道徳を振りかざした【モラリズム moralism】で相手を叩きのめすだけの論理薄弱な情弱に過ぎません。
彼らは権力を職務上行使できる者を【悪 evil】と断定する一方で、権力を職務上行使できない自分達を【善 good】と断定する【ルサンチマン ressentiment】を振りかざすだけの幼稚な凡人に過ぎないのです。
民主主義国家の日本の主権は国民にあり、政府はマンスリーに発表される内閣支持率に敏感であるため、その権力の行使には極めて慎重です。例えば、安倍政権は8年間にわたって選挙に大勝し続けましたが、最後まで持論の憲法改正については議論すらしませんでした。
そもそも、リベラルな安倍首相は一貫して【格差原理 difference principal】に従い、庶民に豊満な社会保障を提供する弱者の味方であり、サイレント・マジョリティから圧倒的に支持されていました。左翼が妄想するような、民主主義を揺るがして弱者に危害を加えるような「悪政」の構成要件は全く存在しなかったのです。
それにも拘らず、左翼はひたすら安倍首相を民主主義の敵として悪魔化し罵り続けました。安倍首相が悪の存在でなければ、ルサンチマンが全てである彼らの存在意義はなくなるからです。島田氏はさらに続けます。
一方で、安倍元首相暗殺事件や岸田首相襲撃事件を言論に対する暴力と捉える場合、これまで政権が行ってきた言論、報道への介入、文書改竄、説明責任の放棄といった負の側面が目立たなくなるということもありました。
また民主主義への暴力的挑戦と捉えると、国会軽視や安保三法案の閣議決定など民主主義の原則を踏み躙るような行為を公然と行ってきた政権があたかも民主主義の守護者であったかのような錯覚を与えるという面もあります。
左翼はあたかも日本において「報道の自由」「言論の自由」が束縛されているように主張しますが、そんな事実は存在せず、完全なデタラメです。日本では「報道の自由」「言論の自由」か完全に確立されているばかりか、政権に対する「偏向報道の自由」「ヘイトの自由」まで完全に確立されているのです。
それが証拠に、マスメディアも野党も左翼活動家も、安倍首相に対しては常軌を逸するほどに非難を続けました。彼らは、安倍首相が組織的な選挙妨害に一言意見すれば一斉に袋叩きにし、安倍首相がテロに斃れても全く同情することなく、安倍首相を暗殺したテロリストの主張を一斉に大宣伝し、安倍首相の国葬に一斉に反対し、その国葬当日には一斉に安倍首相をコキ下ろしました。
それだけではありません。活動家はブルドーザで安倍首相のマスクを踏みつける儀式を行ったり、ナチスの軍服を着た安倍首相の合成写真を造ってデモで罵倒したりしました。もちろんこれは人権蹂躙のヘイト行為です。それでも安倍首相は笑って受け止め、反論すらしませんでした。彼らがやっていることは、リベラリズムの否定であり、偏狭なモラリズムに他なりません。
反リベラリズム
リベラリズムの正義とは、各個人がもつ善に従う自由を尊重し、その自由の行使が他者の善に従う自由の行使に危害を与える時のみ、その自由の行使を、国民から負託された権力を使って国家が制限するものです。
基本的には、各個人は、法律に違反する危害を他者に与えない限り、その自由を行使できます。これがミルの【危害原理 harm principle】であり、善に対して正義が優越することになります。ちなみに、日本の法律は、米国のリベラルな法哲学を具現化した日本国憲法が謳う「公共の福祉」という危害原理を法哲学の主要理念とするものです。日本において、個人の自由および権利は公共の福祉に反しない限り保障されています。
これに対し、モラリズムの正義は、個人がもつ善を他者に強制させる、あるいは個人の悪を他者に禁止させるものです。各個人は、道徳的に不快な行為を他者に与えてはならないとする【不快原理 offense principle】に基づきその行動を制限されるのです。「危害」とは異なり、「不快」には制限はなく、恣意的に偏狭な道徳を振りかざせば、無制限に自由を束縛することができます。
テロリズムはその極致であり、個人が不快と考える他者の自由を殺人という形で奪う行為です。例えば、安倍首相は統一教会の関連団体の集会でスピーチしましたが、これは他者に危害を与えるものではない合法的行為です。
山上容疑者はその合法的行為を不快に思って安倍首相を暗殺しました。島田氏は、危害原理で守られる安倍首相の人権を完全に無視して非難した上で、極めて勝手な不快原理の乱用によって人殺しを行った山上容疑者をあたかも被害者であるかのように同情したのです。日本の左翼の人々が真のリベラルであるのなら、批判すべきは島田氏に他なりませんが、批判の声は全く聞こえてきません。
日本に蔓延る偏狭な反リベラリズム
日本社会の自由と権利に対する無知は深刻であり、最近の「食用コオロギ問題」も偏狭な反リベラリズムが暴力的な結末を生んだ典型的な例であったと言えます。これは、徳島県の高校生が自由な意思に基づき、専門家の安全指導の下でコオロギパウダーを使った給食を作り、それを希望者が食したという行為に対し、日本社会のヒステリックな【パターナリズム paternalism】が突如発動されたのです。
パターナリズムとは、相手の利益を思いやるという名目で他者の自由に介入する反リベラリズムの一つです。高校生の行為は、誰にも強制することなく誰にも危害を加えることなく個人の自由を行使しただけなのですが、この行為に対して、SNSが不快原理に基づいてヒステリックに批判するという事態が発生しました。
さらに不快原理に基づく偏狭なモラリズムが暴走し、コオロギパウダーを使用したパンを一部商品とする食品メーカーの不買運動に発展し、陰謀論が飛び交う中、バッシングを受けた食品会社が[コオロギ生産を中止]するという事態に至りました。
この食品会社も誰に強制することもなく、誰に危害を与えることもなく、ただ自由に商品を作っていただけですが、反リベラリズムの介入を受けて生産中止に追い込まれたのです。
日本社会には偏狭な正義を振りかざしながら他者の自由に介入したがる人物が伝統的に存在します。彼らの主要なモチベーションは承認欲求であり、不快な相手を攻撃してマウントを取ることで自分が正義の存在であることを他者にアピールしたいのです。
日本の自称リベラルはその典型と言えます。反リベラリズムで暴走する彼らにとって、悪政の事実の存在やイデオロギーなどはもはやどうでもよく、他者を説教して承認欲求を満足させることが目的化しているものと考えられます。彼らに正義などこれっぽっちもありません。
編集部より:この記事は「マスメディア報道のメソドロジー」2023年4月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はマスメディア報道のメソドロジーをご覧ください。