ロシアで「密告社会」が復活

ドイツ通信(DPA)16日付の「ロシアで密告が復活」という見出しの記事を読んで、イギリスの小説家ジョージ・オーウェルの小説「1984年」を思い出した。ビック・ブラザーと呼ばれる人物から監視され、目の動き一つでも不信な動きがあったら即尋問される。何を考えているのか、何を感じたかなどを詰問される世界だ。そこでの合言葉は「ビック・ブラザー・イズ・ウオッチング・ユー」だ(「モスクワ版『1984年』の流刑地」2021年3月28日参考)。

タチアナ・モスカルコワ人権委員から年次業績報告書を聞くプーチン大統領(2023年5月15日、クレムリン公式サイト)

同じような内容が脱北者が書いた本にも掲載されている。北朝鮮では国民は厳密な監視社会で“金王朝”を批判する言動をすれば即政治収容所送りになる。俗に「密告社会」と呼ばれている。

「密告」という言葉は、ひとの不正行為などをこっそりと関係当局・関係者に告げ知らせることを意味する。個人的な利益を得るためなどの卑劣な動機で他者をその上位機関に告訴する行為と解釈される。簡単にいえば「告げ口」だ。北朝鮮など独裁国で密告された人物は生命の危険が出てくるから深刻だ。密告者が誰か不明の場合もあるし、友人、知人など身近な人間の場合もある。

北朝鮮の場合、家庭内でも金王朝を批判する夫を妻が治安機関に密告することがあるし、子供が両親を訴えるというケースもあるというから、徹底した密告社会だ。北の場合、金王朝を批判している夫を治安機関に通知しないと、家人も疑われる。夫が寝言で反体制的な内容を吐露すれば、それを聞いた家人から密告される危険性があるから、寝言一つも言えない。

「密告」は決して新しいことではない。どの時代、どの世界でも「密告」という人間的な行為はあったし、今もある。ただ、独裁国家や共産主義国では「密告」は体制維持の手段として利用されている。

本題に入る。プーチン大統領の侵略戦争は隣国に死と破壊と計り知れない犠牲をもたらしているが、ロシア社会にも大きな爪痕を残している。何十万人の国民が、侵略に抗議したり、徴兵されることを恐れて国外に避難している一方、国内に残った戦争批判者たちは危険な生活を送っている。なぜなら、ロシア社会の内部では、「密告主義」という邪悪な伝統が復活してきたからだ。

ロシア連邦通信・情報技術・マスコミ分野監督庁(ロスコムナゾール)は2022年上半期、国民から約14万5000件の密告情報を登録した。前年同期比で25%増だ。実際に有罪判決を受けるのはほんの一部だが、多くの人は密告を恐れている。戦争が始まって以来、とりわけロシア軍の名誉毀損に関する恐ろしい法律が制定された。最悪の場合、15年間収容所に入れられる。

ロシアには卑劣な理由で同胞を当局に密告するという悲劇的な伝統がある。ソ連の独裁者ヨシフ・スターリン(1927~1953年)の統治は、とりわけ密告が至る所で席巻した時代だった。数百万人が粛清の犠牲となった。密告する人は、愛国的な義務を果たすと共に、歓迎されない同胞を必要に応じて排除することができる、といった2つのメリットがあるのだ。

DPAが書いている「密告者」(独語Denunziantentum)の例を紹介する。

①ロシア人夫婦がロシア南部カバルディノ・バルカリア州の療養所の食堂に座って話していた。ウクライナ戦争が勃発した直後だった。妻はキーウに住む87歳の母親のことを心配し、「戦争は起こるべきではない。両国にとって不幸だ」と語った。夫婦の隣のテーブルにいた女性がその言葉を聞き、治安関係者に通報した。自国軍の「信用を傷つける」ことに関する新法の適用を受け、ロシア人夫妻は逮捕された。彼らは後に釈放されたが、裁判所は3万ルーブル(約355ユーロ・約5万2600円)の罰金刑を言い渡した。

②モスクワの南東にあるペンザ市では、英語教師が戦争を批判する発言をしたとして生徒らから非難され、5年の執行猶予を言い渡された。

③サンクトペテルブルクでは車の中でウクライナ音楽を大音量で聞いている隣人に迷惑を受けた住民が警察に通報した。男性は350ユーロ以上の罰金を支払わなければならなかった。

④モスクワでは、中学2年生がロシアの紙旗を潰したとしてクラスメートの母親から通報を受けた。

⑤モスクワで、母親は徴兵を回避してきた自分の息子を当局に密告した。

密告の伝統はクレムリン内にも及ぶ。スパイ行為と反逆行為が再び流行する勢いだ。クレムリンでロシア幹部がプーチン大統領の統治に不満を表明した場合、遅かれ早かれプーチン氏の耳に入る。賢明な軍幹部は同僚を決して100%信頼しない。相互に信頼関係のないロシア軍幹部の指揮下の戦争で成果が上がらないのは当然ともいえる。逆に、祖国防衛で結束しているウクライナ軍はたとえ数で劣るとしても、ロシア軍を窮地に追い込むことができるわけだ。

情報機関出身のプーチン氏は「密告社会」を作り、国の統治網を構築したが、独裁者にはなれても、敵軍との戦いで勝利したり、国民の自由なイニシャティブが不可欠な経済活動を促進させることはできない。独裁者は体制に問題が出てくると、国民に「愛国心」を訴える作戦に出るが、密告社会では真の愛国心は育たないのだ。これは中国共産党政権にも言えることだろう。習近平国家主席は、ここにきて頻繁に愛国心を強調し出した。習近平主席の基盤が揺るいできた証拠だ(「中国の監視社会と『社会信用スコア』」2019年3月10日参考)。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年5月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。