大河ドラマ『どうする家康』解説②:武田信玄は上洛を目指していたか

呉座 勇一

NHK大河ドラマ『どうする家康』で先日、三方ヶ原合戦が描かれた。武田信玄と徳川家康が激突した三方ヶ原合戦は、徳川家康の生涯唯一の「大敗」として知られている。

しかし三方ヶ原合戦は、武田信玄と徳川家康の単なる個人的な交戦ではなかった。当時、織田信長と徳川家康は同盟関係にあり、信長は反信長連合(「信長包囲網」)と激闘を繰り広げていた。三方ヶ原合戦は、信玄が信長包囲網の一環として行った作戦でもあった。家康が三方ヶ原合戦で敗北したことは、信長にとっても危機であった。

第18回「真・三方ヶ原合戦」より
NHK「家康ギャラリー」

三方ヶ原合戦は一般に、武田信玄が上洛するための戦争であった、と解釈されている。武田信玄の出陣が上洛を目的としていた、という見解は早くも江戸時代の『三河物語』に見え、長らく通説の位置を保っていた。

戦前に活躍したジャーナリストの徳富蘇峰も『近世日本国民史』で、上洛を信玄の「宿昔の志」であると指摘している。歴史学者の小和田哲男氏も1988年に発表した『三方ヶ原の戦い』で「信玄も、『信長に代わって天下に号令したい』という野望をもっていたので、義昭の思惑と一致し、義昭の信長打倒計画にのせられたふりをしながら、京都に旗を立てる機会をねらっていたのである」と解説している。

とはいえ、通説に異を唱える者がいなかったわけではない。歴史学者の高柳光壽は1958年に発表した『戦国戦記 三方原の戦』において、早急な上洛は非現実的であると否定した。

高柳は「三方原の戦は、将来上洛しようと望んでいる信玄の、その希望実現への過程にかける一戦であったことは事実であるが、しかしこの一戦の余威をもって直ぐに上洛しようとするような戦争、上洛のための直接の戦争でなかったことは明らかである」「信玄が三方原へ出た真意は、遠江を手に入れようとしたことにあったとすべきである」と述べている。家康に打撃を与え、信長の勢力を削減した上で将来的に上京するという遠大な計画であるというのだ。

実際、信玄は三河国衆の奥平定勝に宛てた書状で、遠江侵攻の動機として「三ヶ年の鬱憤を晴らす」と述べている(「武市通弘氏所蔵文書」)。信玄は、同盟違反を繰り返した上で同盟を破棄した家康を深く恨んでおり、家康への報復を心に誓っていたのだ。

一方で鴨川達夫氏は、2007年に発表した『武田信玄と勝頼』において、「三方原の合戦の後、家康に止めを刺すことなく三河に転進した点からすれば、家康を倒してその領国を奪う意図があったとは考えにくい。家康に一定の打撃を与えれば、それで十分だったのである」と主張する。

鴨川氏は、信玄が秋山虎繁率いる別働隊に美濃岩村城を攻略させていること、朝倉義景宛の書状の中で打倒信長を繰り返し語っていることに注目し、「岐阜を本拠地とする信長と対決すること」が目的だったと論じている。「信玄が遠江・三河に攻め込んだのは家康に一撃を加えるためで、別働隊に担当させた岐阜方面こそが本線だ」というのである。

この鴨川説に対しては、柴裕之氏が、秋山虎繁はこの時期、東美濃に進出しておらず、別働隊は存在しなかったと批判している。岩村城主の遠山氏は武田氏に自発的に従属したのである。ただし本多隆成氏が指摘するように、信玄は甲府出陣前より、飛騨への侵攻、東美濃への調略を進めており、やはり当初から信長との対決を予定していたと考えるべきであろう。

本多隆成氏は、対信長(美濃攻略)か対家康(遠江攻略)かという二者択一的に捉えるのではなく、両方を目的としていたと主張している。「すなわち、まず遠江・三河に侵攻し、家康の領国を蹂躙して後顧の憂いをなくし、ついで東美濃に向かい、岐阜の信長との対決をめざしたのではないか」というのである。

対信長(美濃攻略)にせよ、対家康(遠江攻略)にせよ、近年の研究は信玄が上洛を目指していたという旧説に否定的である。それには信長包囲網に関する研究の進展が影響している。

武田信玄上洛説の前提には、将軍足利義昭を盟主とする信長包囲網が形成されていたという事実認識があった。義昭の呼びかけに応じて信玄は上洛の兵を挙げた、と考えられてきたのである。

その根拠として重視されてきた史料が、五月十七日(松永久秀家臣)岡周防守宛信玄書状(「荒尾家文書」)と、五月十三日信玄宛足利義昭御内書(「大槻家文書」)である。前者は、将軍足利義昭が織田信長への敵対の意志を鮮明にしたので、その意向に従い信玄が上洛の意志を表明したものである。後者は、信玄が義昭に忠誠を誓う起請文を提出したことを受けて、義昭が信玄に対して「天下静謐」のために協力するよう命じたものである。

従来、前者は元亀二年、後者は元亀三年に年次比定され、いずれも信玄の甲府出陣前の文書と考えられてきた。ところが、鴨川達夫氏や柴裕之氏の研究により、両文書は元亀四年の文書であることが明らかにされた。元亀四年五月となると、信玄は既にこの世の人ではないが、武田家は信玄の死を秘匿していた。前者は信玄死後の代筆、後者は義昭が信玄の死をまだ把握していなかったと考えれば、整合的に解釈できる。

加えて、元亀四年に比定できる二月二十一日(武田信玄家臣)穴山信君宛て浅井長政書状(「土井家文書」)・二月二十六日越中勝興寺宛浅井長政書状(「勝興寺文書」)の内容を吟味すると、将軍義昭が信長と正面切って敵対することを決意し、朝倉義景・浅井長政らに打倒信長の御内書を発給したのは、三方ヶ原合戦に信玄が圧勝したことを知った元亀四年二月であることが判明する。さらに柴氏が指摘するように、(元亀三年)十一月十九日朽木弥十郎宛徳川家康書状(「鹽川利員氏所蔵文書」)によれば、信玄の遠江侵攻開始時点では、足利義昭は信長・家康を支持し、信玄とは敵対する関係にあったのである。

したがって、打倒信長を画策する将軍足利義昭による上洛の呼びかけに応じて武田信玄が徳川領に侵攻したという従来の理解とは逆に、実際の事実経過は、信玄が徳川領に侵攻し、三方ヶ原の戦いで大勝したことに動揺した義昭が、信長を見捨てて反信長勢力に接近し、信玄に上洛を呼びかけた、というものだった。甲府出発時点で、信玄が上洛を意識していたという旧説は、主要な史料的根拠を失ったのであり、もはや成り立ち得ないだろう。

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