『田中耕太郎』と憲法学者の陰謀

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牧原出・東京大学教授の『田中耕太郎』(中公新書)が、2023年第24回「読売・吉野作造賞」の受賞作に決まった。詳細な田中の評伝であり、非常に質の高い労作だ。

牧原教授自身の問題意識は、「制度の独立の意義」という点にあるという。ただ、この本が持っている意味は、それだけにとどまらない。より論争的な点が、あまり注目されていないように思われる。

北岡伸一・選考委員会座長は、次のように書いている

「田中時代の最高裁は、その保守性を批判された。1959年の砂川事件判決において、最高裁は日米安全保障条約を事実上合憲とした。これは田中の影響下にある判決だったが、田中自身は、より明快な集団的自衛権合憲論、つまり日米安保合憲論だった。」

私自身、読売・吉野作造賞をいただいた時の作品『集団的自衛権の思想史』(風行社、2016年)で、田中について、集団的自衛権が合憲と考えられていた時代の象徴的人物として、ふれたことがある。憲法学者の政治イデオロギー操作の歴史の中で、田中耕太郎の位置づけは、やってもいない陰謀論で責め立てられてきた芦田均のそれと似ている。

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2015年の平和安全法制をめぐる喧騒の中で、「集団的自衛権は戦後一貫して違憲だとみなされてきたのに、安倍政権がそれを変更した」といった主張が、政治イデオロギー的に偏向した憲法学者らによってもっともらしく吹聴されたことがある。

だが、これは間違いである。沖縄返還直後の1972年の内閣法制局見解で初めて、集団的自衛権は違憲だ、という見解が政府によって採用されたにすぎない。それ以前の時代に、集団的自衛権が違憲だと公式に認められたことはない。内閣法制局が違憲論を口走り始めたのも、左翼学生運動とベトナム反戦運動の嵐が吹き荒れる中、せいぜい本格的に沖縄返還交渉が進められ始めた1960年代末だ。

沖縄返還時に「基地自由使用」の密約がなされた。これによって日本は、沖縄返還後、ベトナム戦争に関して集団的自衛権を行使している状態に陥っていると指摘されかねないことになった。そこで、集団的自衛権は違憲なのだから行使しているはずはない、という主張が出てきた。時期的な符合を見て、私はそう推論している。

日米安全保障条約の合憲性が問われた「砂川事件」の最高裁判決の当時、最高裁長官だったのが田中耕太郎だった。1960年安保改定の前年の1959年のことである。

田中は敬虔なカトリック信者で、反共主義者であった。そのため憲法学者ら左翼勢力からは「反動的」な人物であったとみなされている。その「反動」の田中が長官として指揮したので、「砂川事件」の最高裁判決は政治的に操作されたものだ、と憲法学者ら左翼勢力の人々は主張してきた。そこで「砂川事件では統治行為論(裁判所は政治案件を判断すべきではないという議論)を理由にした日米安保の違憲性の不当な回避が行われた」といった理解がみられるようになった。

これは二重に問題を含んでおり、間違いである。第一の明白な間違いは、田中が「統治行為論」を採用した、という理解である。『世界法の理論』という主著を持つ学者であった田中は、日本国憲法制定後は「憲法の自然法的性格」を強く信奉して主張していた。

国際法と憲法の一体性を信じていた田中にとっては、日本が国連軍に参加することすら「憲法の自然法的性格」から可能であった。日米安全保障条約が合憲であることは、自明のことであった。集団的自衛権という国連憲章に明記された権利の行使が違憲であるはずはないのは、「憲法の自然法的性格」から、田中にとっては、当然すぎることだったのである。これは、「砂川事件」最高裁判決に付された田中の「補足意見」において明確に主張されたことであった。

田中は「補足意見」の中で、「世界を標準として人類の法律秩序を考ふるとき従来の国家本意、民族本位の法律理論は転覆せざるを得ぬ」と主張し、自らの主著の主題「世界法」の概念を参照して、日米安保条約の合憲性を主張したのである。

田中によって「日米の安保体制も世界法的とされている」ことは、憲法学者ら左翼勢力を驚かせたが、要するに彼らはまずもって田中の議論を理解すること自体を拒絶していた。憲法学者ら左翼勢力は、全ては田中の「反動」思想による詭弁であり、日米安保体制が「世界法的」であるはずはなく、むしろ違憲であり、田中は見えすいた嘘をついているに過ぎない、とみなした。

しかし、これは憲法学者の側の政治イデオロギー的な偏見による偏狭さを示すエピソードでしかない。少なくとも田中は従来からの一貫した学説にしたがって、「憲法の自然法的性格」を根拠にした「日米安保の世界法的」性格を洞察していた。

憲法学者ら左翼勢力の第二の間違いは、最高裁判決そのものも「統治行為論」による日米安保条約の違憲判断の回避であった、と主張したことである。

判決は、条約締結が「違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従って、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のもの」と説明した。これは確かに、統治行為論の採用を主張する少数の裁判官なども意識した文章であったのだろう。結果として、判決は裁判官の全員一致を勝ち取ったのである。

だが、それにもかかわらず、「一見極めて明白に違憲無効であると認められる」場合には当然それは「違憲無効」になると最高裁は言った。「砂川事件」最高裁判決が「統治行為論」を採用した判決だったと断定するのは、無理がある。

三権分立の憲法の原則から、内閣と国会の条約締結権の審査には、ことさら慎重さが必要になる、ということを言うのは、それほど奇抜なことではない。行政府と立法府の行動に対する司法審査権の濫用は三権分立を危うくするのは確かである以上、「砂川事件」の判決文をもって「統治行為論」の採用による日米安保条約の違憲性の隠蔽の証拠だと主張するのは、無理がある。この点は、衆議院解散の違憲性が争われた翌年の「苫米地事件」判決の場合とも異なっている。

田中は、最高裁長官を退任した後、日本人初の「国際司法裁判所(ICJ)」の判事となってハーグで9年間暮らした。その時期に最も劇的な事件が、アパルトヘイト政策を伴って国際連盟時代の委任統治領(現在のナミビア)を支配し続けた南アフリカの政策に関する1966年「南西アフリカ事件」判決であった。

南アフリカの統治は、法の一般原則に反し、自然法的な原理から違法であると主張した田中の「反対意見」は、世界を席巻していた「脱植民地化」と「反アパルトヘイト」の波の中で、大きく注目された。今日の国際法学においても頻繁に参照される歴史的に重要な「反対意見」である。

牧原教授の『田中耕太郎』では、このICJ時代の田中の行動に十分な紙幅がさかれている。田中が単なる「保守反動」ではなく、「世界法」の概念を信奉する「自然法主義者」というべき存在であったことを理解するのに、重要な点である。

田中にとっては、南西アフリカ事件の「反対意見」が「世界法」に基づく「自然法的なもの」であり、そして日米安保条約の合憲性が「世界法」に基づく「自然法的なもの」であった。それらは全て、戦前の1939年に軍部の圧力で「日本固有法」を調査する委員に就任するように求められた際、「日本には固有法はない」と述べて断ったときから(牧原『田中耕太郎』75-76頁)、田中が一貫して持っていた態度の所産であったのである。

裏を返せば、政治イデオロギー的に偏向した憲法学者ら左翼勢力は、起草者の本来の意図であり、芦田均や田中耕太郎らが正しく理解していた「国際法に調和する日本国憲法」を、政治運動を駆使して、封印し、隠し通そうとし続けてきた。

牧原教授の労作『田中耕太郎』は、淡々とした語り口で、あらためてそのことを教えてくれている。