「終末」を恐れることはない

「終末思想」は世界の始めと終わりの到来を前提とした思想で、キリスト教の教えの中に色濃く反映している。同時に、終末思想は民族、文化、宗教を越えてさまざまな形態でみられる。「終末思想」が人類共通のDNAとするならば、スイスの精神科医カール・グスタフ・ユングの言葉を借りれば、人類の「集団的無意識」の世界に属する思想といえる。

「天地創造の神話」、「洪水神話」、「兄弟殺人の話」(フラトリサイド)などが世界至る所で形を変えながらも見い出せるように、「終末思想」も文化圏を越えて人類が継承してきた集団的無意識の一つといえるわけだ。

朝の光が雲の間から降り注ぐ瞬間(2018年7月27日、ウィーンで撮影)

「終末」があるということは、「始め」があったことになる。始めも終わりもないギリシャ思想や仏教の時間観とは少々異なる。キリスト教では天地創造だ。そこから始まった人類の歴史はいつしか終りを迎える。その終幕が人類全てにとって新約聖書の黙示録が暗示する「カタストロフィ」を意味するのか、それとも人類の「再出発」なのかは「終末」を説く宗教、思想によってやはり異なる。

参考までに、宇宙物理学の世界では、宇宙はビッグバン以後、限りなく膨張しているといったインフレーション説がある一方、地球が太陽の周囲を公転しているが、その太陽はあと50億年後には寿命を迎えるといわれている。少なくとも、地球上に住む人類にとっては「終末」は織り込み済みということになる。ただ、50億年先の未来を憂いて、「終末思想」に囚われる人は流石に多くはいないだろう。

はっきりとしている点は、「終末」が常にアポカリプスの世界を意味するわけではないことだ。新しく生まれ変わる「新生」を意味すると考えることができるのだ。キリスト教では、終末が「選民思想」と密接に繋がっている場合がある。一定数の選ばれた人々だけが、新しい世界を再創造し、「千年王国」を築いていくといった「選民思想」だ。

キリスト教でも、「エホバの証人」は明確な「終末思想」を有し、終末の到来の日を計算しているが、世界最大のキリスト教、ローマ・カトリック教会では終末という概念、教義(ドグマ)はあるが、敢えてそれを大きく主張しない傾向がある。ちょうど、イエスの再臨問題と同じで、神のみが知る領域と受け取り、考えることを放棄している。

少々象徴的な表現となるが、「終末」とは、古い衣を脱いで新しい衣に着替えなければならない時代ではないか。ただ、終末時には「古い世界」と「新しい世界」が交差するだけに、葛藤や紛争が生じやすい。

例えば、イスラム過激派グループには過激な「終末思想」が見られる。自身の信じる世界観、神観が唯一正しいと確信し、それと異なる世界観、神観を打ち破らなければならないという使命感があるから、闘争的になる。彼らは物事を相対的に考えることができないから、思考に柔軟性が乏しい。だから神の名で多くの人を殺すことができる。その際、終末観が彼らの原動力となる。

最近、ドイツ語圏で過激な活動をしている環境保護グループ「最後の世代」のメンバーからはキリスト教的な終末思想が潜んでいるのを感じる。「最後の世代」は、ドイツやオーストリアで地球温暖化防止を訴え、美術館、博物館で絵画や展示品にペンキをかけたり、ラッシュアワーの主要道路に座り込み、車の通過を妨げるなどして、注目されてきた。

ドイツで先月24日、連邦7州15カ所で「最後の世代」関連の施設に強制捜査が入った。ドイツのメディアによると、捜査には約170人の捜査官を投入。捜査容疑は犯罪組織の結成または支援で、22歳から38歳までの計7人が容疑者として捜査対象になっているという。ドイツでは「最後の世代」はテロ組織ではないが、「組織犯罪グループ」のカテゴリーから調査が進められているという。

このコラム欄でも一度紹介したが、オーストリア日刊紙クライネ・ツァイトゥングは今年1月22日、「最後の世代」の運動が宗教的な衝動で動かされていると喝破している。

曰く「彼らは世界の終わりが差し迫っていると信じており、人々に改宗を求めている。歴史的にみて決して新しいことではない。キリスト教とそれによって形成されたヨーロッパの歴史は、世界の終わりとその預言者の歴史でもあった。『地球は燃えている』という叫びは、私たちの文化的記憶に定着している。火と硫黄に沈む様子は、「ヨハネの黙示録」のアポカリプスの世界だ。この地球上の『最後の世代』という考えは、既存の世界の終わりと新しい世界の夜明けを常に期待して生きた最初のクリスチャンの姿と重なる」と、非常に興味深い分析をしている。

終末時には、多くの預言者が出て、「今は終末だ」、「最後の審判が下される時だ」、「悔い改めよ」などの警告の声が広がる。同時に、さまざまなフェイク情報が拡散され、神への信仰は廃れ、何が善であり、何が悪であるか分からなくなっていく。ノアの時も終末だった。イエスの時もそうだった。

新約聖書「マルコによる福音書」第13章では、イエスは「いちじくの木から学びなさい」と述べ、時を知れと諭している。混迷する世界の政治情勢、ニヒリズムの台頭、社会の閉塞感などを目撃すると、私たちが生きている21世紀は終末の時なのかもしれない。そうであるならば、「終末」を恐れることはない。時代が提示する課題に果敢に挑戦していくだけだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年6月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。