自分への挑戦

アゴラに、『宮崎駿氏に学ぶ「頑張ることの真の意味」』(23年2月8日)と題された記事があり、筆者はその中で次のように述べています――結局、頑張るとか努力は可視化されることはほぼない。多くの人は仕事の成果プロセスではなく、結果しか見ない。だから頑張ること自体に意味はなく、その頑張りが成果に反映された時のみ意味を帯びるのだ。

そして筆者は、『「頑張りを認めてほしい」という主観的な希望は脇に置き、黙って頑張っていたら他者が評価してくれるような努力を目指したいものである。高い評価を受けたり努力をリスペクトされるようなアスリートやビジネスマンには、努力を自ら誇ることはしないのだ』と結んでいます。
概して世間には、出来ていないことを評価する人は珍しいと思います。世間というのは、結果が伴ってはじめて認めてくれるものです。今迄けちょんけちょんに言っていた人が、ある日突然がらっと180度宗旨変えをし、評価して行くようなところがあると思います。

故に孔子の有名な言、「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖(いえど)も吾(われ)往(ゆ)かん」(『孟子』)の如く、世の毀誉褒貶など一々気にせずに自分が信ずることを唯ひたすらに一生懸命やり上げる、という以外に何も無いと言えるでしょう。

私は、何か成そうと思えばそれは常に自分への挑戦でしかないと捉えています。自分への挑戦として何か目標を掲げ、その達成に向けて全力で難関を一つ一つクリアして行くことに過ぎないわけです。従って、そもそもが頑張る・頑張らないといった世界とは異質なように思えます。

又その挑戦に対する評価は自分が自分に下すべきもので、人に評価を求める類ではないと思います。人にリスペクトして貰いたい、と期待してやるような頑張りは真の頑張りではないのです。

「勝つは己に克つより大なるはなし」(プラトン)――所謂「克己心…自らに打ち克つ精神」は何をするにも一番大事だと私は思っています。自分がやるべき事柄を、常々自分に挑戦しながら、唯唯淡々とやって行くだけです。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2023年7月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。