改正入管法に関する以下のツイートが結構バズって色んな意見が飛んできました。
改正入管法は専門家が与野党の間に入り自民党や当局からすれば”物凄く妥協した”修正案に合意を取り付けていたのに、少しの妥協も許さず反対だけを叫び続ける活動家によって潰された結果”最もタカ派の当初案”が通ったらしい。その専門家御本人の文章が必読の迫力だった。(続https://t.co/DmxM5XYpnD
— 倉本圭造@新刊発売中です! (@keizokuramoto) June 17, 2023
改正入管法に関して国会参考人として関わり、修正案を作った橋本直子一橋大准教授の書かれた記事の紹介なんですが、上記ツイートをクリックしたら出てくる連ツイに書いたように、「現実的に入管行政が少しでもマシになるように奔走したら左翼活動家たちから裏切り者扱いされて潰された」御本人から出てくる以下のような強い言葉たち…
・異論を許さない”リベラルでないリベラル”(過激活動家と違う意見を述べたら徹底的に攻撃され潰される)
とか、
・ハッシュタグでツイートとか散発的なデモなんかより、法案の妥協点を専門的に探り合い交渉を重ねる事こそが”本当の戦い”なのだ
…みたいな言葉は凄い強烈な渾身の怒りの発露という感じで、読んでて静かな深い迫力がありました。
で!今の日本のTwitterで数千リツイート、百万回弱も表示されると、一週間ぐらい色んな悪口雑言が私のアカウントに投げ込まれ続けるのがいつものパターンなんですけど、今回は凄い平和だったんですよね。
勿論、「ほんと、妥協を知らない左翼の過激派って困るよねえ」みたいな保守派のコメントも結構ついてましたけど、一方で「いわゆる左翼」の人でもかなりの部分の人が、「この橋本直子氏の意見は否定できない」という意見の人がかなりいた。
さらに言えば、「この橋本氏のいうことは決して受け入れられないぞ」みたいな「非妥協的な理想」を持ってる左翼活動家の人でも、そのうちの9割は「ちゃんと議論しなきゃ」みたいな感じで、普段みたいに「このクソ差別主義者め!●ね!」みたいなコミュニケーション不可能な暴言だけを出会い頭に大量に投げ込んでくるみたいなのが本当に少なかったです。
バズったことで左翼活動家に攻撃されてませんか?って心配してくれる人もいたんですが、体感としては、
百万回近く表示されるバズになって、こんなに平和だったのは過去なかった
…というのが正直な体感で。
なんせ「日本もこんだけ暑くなったんだから男も日傘持ったらいいよ」、っていう平和すぎるツイートがバズった時ですら、”日傘は女のもの”という差別意識が女を二級市民扱いしていて云々みたいなジェンダー関連の話題でもっと殺伐としたコメントがバンバン飛んできた記憶があります(笑)
それよりよっぽど平和だったっていうのは、実は地味に凄いことではないかと思うんですよね。
なにかここには「日本のSNSの空気」の新しい展開みたいなのがあるんじゃないかと。
言ってみれば、既存の右翼vs左翼を超える、日本のネット論壇の「新しいコンセンサス」みたいなのが生まれつつあるんじゃないかと思うんですよ。
で、これは、
・橋本准教授に批判されているような『左翼活動家』にとっては厳しい状況
かもしれないが、
・「日本社会にリベラル的な良心を政策的に実現させたい」というときにはむしろ良い傾向
…だと本来言えるはずなんですよ。
なぜなら、「非妥協的な左翼活動家」だけが暴れていると、現実をグリップするために「過剰に保守的な決着」に引きこもらざるを得ない…という不幸な連鎖が過去10年の日本ではずっと続いてきているからです。
「右とか左とかじゃない、ある程度現実的かつある程度進歩的な」
…というあたりに
「新しい中庸的コンセンサス」
…が生まれてこそ、一般的市民の眉をひそめさせるレベルの「最右翼」的な論理を抑制して、リベラル派が持っている良心的なものをちゃんと政策的に実現していける情勢が生まれる。
そういう方向に動かしていける「情勢」は高まっていると私は感じているので、あとはその方法について掘り下げて考えてみる記事を書きます。
追記ですが、橋本直子氏御本人からこの記事に対して非常にアツい共感コメントを戴きまして、連ツイで細かい論点について意見を寄せていただきましたので、以下のツイートをクリックして下に連なる連ツイをお読みいただければと思います。
この倉本圭造氏のNoteは必読!
倉本様、私が書ききれなかったことまで2000%汲み取って下さって有難うございます!反応が過去になく平和だったとのこと安心しました&嬉しいですし、もしかしたらサイレント・マジョリティーに語り掛けられたのかもしれません。
以下いくつか論点毎に返信すると (続 https://t.co/Tuz4sWH6tY
— Dr. Naoko Hashimoto 橋本直子 (@NaokoScalise) July 2, 2023
1. 「なぜリベラルは敗け続けるのか?」について具体的な事例で考える
橋本准教授の文章の中に、何度か「なぜリベラルは敗け続けるのか」っていう言葉が出てきたんですが、これは政治学者の岡田憲治氏の本のタイトルなんですね(御本人コメントによるとまさにこの本を意識して使われた表現だったそうです)。
岡田先生は、ご自身で左派政党のアドバイザーも勤める政治学者で、「リベラルはなぜ敗け続けるのか」というド直球タイトルの本を書く一方、お子さんの学校のPTA会長になられて普通はなかなかできない色んな改革を実現した事に関する以下の本が有名な人です。
で、最近私はこの岡田先生と対談してきまして、その記事がアップされたばかりなんですよ。
大半の人が嫌がる「PTAの悪習」はなぜ改革できない?日本の議論が「無意味な罵り合い」に終わるワケ 倉本圭造×岡田憲治対談
上記対談でも話題になっていますが、まずはこの「PTA改革」という具体的な話をしながら、日本における「左翼的良心」があまりうまく社会に受け入れられない問題について考察していきたいんですね。
岡田先生のPTA改革については、以下の記事でも書いたので、ご興味があればそちらも読んでいただきたいのですが…
多くの人がイヤダイヤダと言ってるPTAみたいなものが、今の日本でなぜ変えられないのか?
単純化して言うと、「PTA反対派は反対派の内輪の論理だけを先鋭化させるから」だと私は考えています。
2. 「片方側の正義だけを純粋化」して、あらゆる妥協を許さなくなってしまう問題
PTAに限らずなんですが、日本社会には「多くの人がもう嫌だと思っているのに変えられない風習」ってありますよね。
「こんなの全部やめちゃえよ!」みたいな話が時々Twitterでバズってますけど、
そういう「全部やめたい」派が「全部やめたい派」の内側だけで盛り上がって、「逆側の意見の人」が決して受け入れられないところまで先鋭化してしまうので、結果として実現しなくなってしまう
…という事ってよくあるなと私は感じています。
例えばPTAって、要らない派からするとホント謎の組織ですけど、特に自分自身は地縁が全然ない地域に引っ越してきて子育てをはじめる人にとっては、「繋がり」を生み出す機能として結構役立っていたりするんですよね。
だから、「全部やめられたら困る」という利害関係は、結構多くの人に存在しているんですよ。
岡田先生のPTA改革は、そのあたりで『最終ゴールがちょうどよかった』ことが成功の秘訣だと思っています。
いきなり「全部やめてしまえ」みたいな事にはしない。
そこにあるからには「果たしていた機能」があるわけで、例えばその「繋がりを生み出す機能」の部分はちゃんと残しながら、無意味に負担が大きいような仕組みはバンバン削っていくことに成功している。
結果として最終的に「PTAを廃止する」という決断に至るとしても、そのプロセスで「繋がりを生み出す場としての機能」を代替する別の仕組みをちゃんと作っておけば、「廃止」に対しても納得感が得られる可能性が出てくるはずなんですね。
このように現実的な「改革」を積んでいくためには、PTA廃止派にもPTA存続派にも両方譲れない”正義”があるということを前提として考える発想が必要になる。
私はこれを『メタ正義感覚』と呼んでいます。
廃止派には廃止派の「ベタな正義」があり、存続派には存続派の「ベタな正義」が存在する。
それぞれの「ベタな正義」に引きこもって相手を全否定しているだけでは単に拮抗して押し合いへし合いの膠着状態になってしまう。
そういうときに必要なのが、そもそも「どちら側の正義も意味がある」と認めてしまう『メタ正義的発想』というわけです。
岡田先生のPTA改革においては、「PTA廃止派」と「PTA存続派」の両方それぞれに「譲れない正義」はあるのだ・・・というのが前提になった上で、
「どうすれば最も負担が少なくそこにある機能だけを残せるのか?」
…という具体的な部分に集中することができていた。
その「両サイドにどちらも否定できない正義があるのだ」という前提に立つことができさえすれば、あとは「そうはいってもこの作業とか負担大きすぎて時代に合ってないよね」みたいな話については「どちらがわの正義」に立っている人も8割以上が同じことを考えている可能性すらある。
あとはその「メタ正義的な視点の共有軸で培われた人間関係」の上で粛々と具体的な話を解決していけばいいだけになる。
今後の日本社会において「リベラル的良心」をちゃんと社会に反映させていくためには、この「メタ正義感覚」が重要になってくるはずです。
次は、PTA改革のような日常レベルの話を超えて、今回の入管法関連のような大きな政治課題について『メタ正義』的に考えていく方法を考えてみましょう。
3. 昨今の日本の政治的課題が「メタ正義」的に解決できない理由
では、今回紛糾していた入管法関連での「タカ派側の正義」とは何なのか?
PTA的に日常的な課題と、入管法みたいに大きな話では何が違うのか?
PTAみたいな身近な問題だと、「全部やめちゃえよ!」系の意見に対して、「実はこういう役割があるんで」みたいな話は考えれば思いつきやすいんですよね。
「どちらがわにもベタな正義がある」という事がわかりやすい。
でも、入管法関連のような話題では、「自民党側」「入管関連に関してタカ派側の勢力」が持っている
「正義」
…というのが何なのか?が意識されづらいところが、大きな違いだと思います。
こうやって書いただけで、「今の自民党に正義などない!」とブチギレる人がいそうなぐらいの感じですからね。
だからまず「両側が持つベタな正義を均等にテーブルの上に上げる」という、「ベタな正義同士を対置してメタ正義に至る」発想ができづらい。
これは最近の日本の政治が空転する原因として共通してある問題だなと思います。
ここで考えるべきことは、「非欧米社会」である日本においては、欧米における理想をただそのまま持ってきてもフィットしない部分が色々とあるわけですよね。
そのフィットしてない部分は何なのか?その社会の価値観を尊重しつつそれと共鳴させながら具体的な改善点を積んでいきましょう…というメタ正義的に溶け合わせるプロセスに集中できればいいんですが、最近はなかなかそれが難しい。
「古い社会を全て否定すべきものとして断罪して、人工的な新しい価値基準を押し込むムーブメント」が、欧米も含めた人類社会全体で流行しすぎて、お互い『言いっ放しで終わり』状態になってしまっているんですね。
4. 単に「欧米的理想を押し込むだけ」では片手落ち。本当の「メタ正義」に至るために必要なことは?
今回ツイートについてた左翼側の反論としては、事実として「難民の認定数」みたいな話において欧米の国とは随分と差があるわけで「文明国」を名乗るならちゃんともっと受け入れを行うべきだ…みたいな話があったんですけど。
なんか個人的には「この物言い」自体が非常に欧米文明中心主義的で、反発を生んでいる原因だと思うんですよね。
というのは、今の国際社会的に「欧米文明」はデファクトな地位を得ているわけなので、「異物耐性」みたいなものが日本よりもよほど高くて当然なんですよね。
ただ、北欧だってオランダだって、「多文化共生の優等生」みたいだったところでも、その後色々と多くの移民を入れすぎたところでは極右勢力が伸長して大問題になってますよね。
だからこの問題を、「日本人が多文化共生を理解しない野蛮人だから」という形で批判すること自体が、非常にアンフェアな叩き方なんですよ。
過去数十年の間、日本よりも欧米諸国の方が「多文化共生」にオープンであるように見えたのは、「欧米文明」自体が人類社会の中でデファクト化しているから「新参者にもある程度は欧米文明を押し付ける事ができていた」だけなのだ…というように見るのがフェアなのだと思います。
むしろ、
「どこの国だろうと、その国の紐帯を生み出してきた文化の共有軸が崩壊にさらされたら、アレルギー反応のようなものが起きるのが自然なことだ」
…というのは前提として考えるべきなんですよ。
このあたりが、「タカ派側の解決を推進する保守派」が持っている「ベタな正義」だと言えるでしょう。
「これ」を否定する必要はないというか、現実的には欧米だろうとどこだろうとこういう構造はあるのだ・・・という認識からスタートするべきなんですよね。
過去20年、日本よりも欧米の方がオープンに見えていたとしたら、それは単に「欧米文明のデファクト力」が日本文化よりも圧倒的だから、新参者に自分たちのやり方を押し付けるパワーが圧倒的に彼らの方があっただけなんだ、というフェアな理解が必要。
その理解をした上で、無駄に「日本の閉鎖性(に見えるもの)を断罪しない」フェアな見方がこれからは大事です。
そして「人々の不安」に寄り添いながら適切なペースと適切に配慮された制度変更を積み重ねていけるかどうかが、実際に「制度のハザマ」で不幸が生まれる現状を変えていくための必要なことだと思います。
欧米でもNIMBY的課題がたくさんある問題(Not in my backyard…理想論として多文化共生を主張している人が”自分の裏庭”ぐらいまで近づくと突然反対する欺瞞)なんだから、「純粋化した理想論に反対するヤツは文明の敵」という態度自体が、そもそも「片側だけの正義」しかちゃんと代表できていない。
その事にむしろ徹底的に向き合っていくことが、これからの日本が国際的に「新しい正義の形」を示していく最大の貢献になるわけです。
では、「タカ派側」「自民党側」にも「ベタな正義」があるということをちゃんと認めた上で、どうすれば私たちは「メタ正義」的な具体的改善に動いていけるのでしょうか?
5. 幻想の中の欧米を持ち出す「ダメな出羽守」と、”欧米のリアル”も知っている「フェアな出羽守」
今回の橋本直子氏の記事が凄く良くて、旧来の「右 vs 左」の対立を超える共感を呼び起こしたところは、いわば橋本氏が「フェアな出羽守」だったからだと私は考えています。
橋本氏は移民・難民問題の専門家だから、こういう入管関連・移民関連問題で真っ白な国など欧米にもほとんどない事が前提になっていた事だと私は考えています。
記事から引用しますが、
イギリスもアメリカもイタリアも庇護政策では恥部を抱えているため、日本だけに批判の矛先が向かうことはない。
こういう↑「本当のプロなりの現実的な視点」があるので、想像上の完全に理想化された「欧米」を持ってきて今の日本を断罪する…という最近の日本の不毛な議論のあるあるパターンから脱却できている。
コロナの時も、日本の何十倍死んでる欧米の事例を持ってきてそれと少しでも違ったら「理性を重んじない土人国家の蒙昧な議論で人が死んでいく!」みたいな大騒ぎをする人がたくさんいましたよね。
そういう歪んだ議論は百害あって一利なしなのだ…と指摘することは、別に日本の対策が完璧だったとかどこも改善点がないとかそういうことを全く意味しない。
ただ、「欧米でも出来てない事」なら「出来てない理由」があるはずで、その「出来ていない理由」自体を具体的に掘り下げて解決策を考えるならまだしも、「幻想化した欧米の事例」を持ってきて「日本は終わった」みたいなことお仲間の内輪だけで大騒ぎされても議論に反映しようがない。
とにかく最近の日本では「あらゆる問題」がそういう無意味な議論で空費されている。
5月に書いた、日本の電力行政に関する以下の記事でも全く同じことが問題になってましたしね。
再エネ普及は「宗教家」から「実務家」の時代へ。未だ残る大課題「電力供給の安定」を皆で考えればもっと先に進める
「悪い出羽守」が、日本社会の現実が今こうなっている理由と丁寧に向き合う気が全然なく、気分でただ「欧米と比べて日本はクソ」って言ってるだけの存在が多すぎるんですね。
結果として、その過剰な理想論が暴走して現実が崩壊してしまわないように、逆に過剰に「タカ派」の勢力でフタをしてなんとかグリップするみたいな事が起きてしまう。
「欧米ではこうなのに日本では」という話しかしない「出羽守」という用語がありますが、20世紀には海外情報を知ってるのは一握りの特別な人だけでしたし、多少は強引に理想化された像でもって日本の改善点を批判する「出羽守」にも意味があった時代もあったわけですよね。
でも、海外情報がいくらでも手に入る時代には、そういう「幻想化した出羽守」みたいな存在が余計に反発を産んで問題が逆向きにタカ派に振れてしまいがちになる問題がある。
だからこそ、「欧米にも欧米なりの問題がある」事を深く理解している「本当の専門家」レベルの「フェアな出羽守」と呼べる存在を軸にして丁寧に「新しいコンセンサス」を作っていくことで、左右の両極端の議論に席巻されてしまわない「中庸な議論の場」を作っていく必要があるんですね。
過去10年の日本が過剰に「右翼的」な議論に引っ張られてしまっていたと感じる人は、それはある意味で「悪い出羽守」が日本というローカル社会が持つ現実に向き合うことなく空論で「なんでも反対」の議論しかしてこなかったからではないか?という点を反省する必要があるんですよ。
「悪い出羽守」を「良い出羽守」で置き換えていくことで、ちゃんと日本社会の現実にフィットした「改善提案」ができるようになり、あとはその「改善提案」を「日本社会の実務者の集まり」と共鳴させて適切に一歩ずつ社会を変えていくだけでよくなる。
この「悪い出羽守が生み出すダメなサイクル」↓を…
「大声で批判する事自体が目的で現実の細部は気にしない”悪い出羽守”が暴れ回る」
↓
「現実をグリップするために実務派勢力が過剰に保守的なグループと結託せざるを得なくなり、その歪みゆえに最右翼グループが好き放題暴れる余地が生まれてしまう」
以下の「本当の専門家」である「フェアな出羽守」が生み出す良いサイクルに転換していく必要があるわけです。
「欧米の良い点も悪い点も幻想抜きに紹介しながら参考にできる点を紹介し、日本社会の現実がそうなっている理由に遡って理解しながら丁寧に改善提案ができる”フェアな出羽守”の意見を徹底的にクローズアップする
↓
あとはそれを日本社会の色んなところにある「実務派の良心さん」と共鳴させて具体的な改善を積んでいくだけでいい。”過剰に右翼的な論調”を放置する必要もなくなる
6. PTAを改革するように入管問題を改革するには?
今回ツイートへの色んな意見の中で、
・実は労働力的・人口の年齢構成な面で、経済界にも移民政策をある程度はオープン化することを求める意見があり、自民党でも本音は同調したい勢力が結構ある。(ただし最右翼支持者の手前積極的には言い難いだけ)
・”すでに日本にいて日本語で育った子女の問題”のような保守派でも心情的に共感しやすいテーマをメインにし、経済的事情と絡めて穏健保守派と穏健左派が協力すれば、適切な落とし所が見つかっていくのではないか?
…という意見が散発的に色々な人から寄せられましたが、「情勢分析」としてかなり的を得ている部分はあると思います。
私のコンサル業のクライアントでまあまあ大きな建設会社があるんですが、その社長も「すでに外国人なしでは日本の”現業”の多くは成り立たないところまで来ている」という話をしていました。
ネットの「愛国者さま」が日本人だけで俺たちはやっていくんだ!国境を完全に閉ざすべきだ!…といくらSNSで強がっても、そういうタイプの人がTwitterやってるスマホを置いて、実際に毎日汗水垂らして建設現場で働いてくれるわけじゃないんだから仕方ないじゃん、的なリアルな話がそこにはある。
入管法関連で「本当の当事者」は、そういう現場レベルの仕事で毎日外国人と接しているタイプの人たちで、「彼らがやりやすいペース」をいかに保てるかが重要なのだと考えるべきなのだと思います。
SNSで大騒ぎしている「入管法関連の左翼側の運動」も「移民排斥運動」も、どちらの参加者も、毎日のしごとの中で外国人労働者と肩を並べている人達と比べれば、本当の意味では「当事者」とは言えないところがある。(もちろん左翼側には実際に外国人住民のトラブル解決みたいなリアルな活動をしている人も含まれていると思いますが、そういう人たちは”当事者”の一員となっていますね)
そういう「本当の当事者」の人たちからすれば、あまりにはやいペースで移民がデファクト化されても困るし、でも適切なペースで人間関係を作っていけるのならば、あまりにも潔癖主義的に国を閉ざしておく必要もないという常識的な感覚がある。
その「本当の当事者の常識的な感覚」をいかに否定せずに、進めるペースをシンクロさせながら一歩ずつ制度変更を行っていけるかが重要になってくるでしょう。
7. 移民への警戒感を「断罪」しない事が重要
インターネットを通じてリアルな動画レベルの情報が飛び交って四六時中繋がり合っていて、人の行き来もどんどん活発化していく現代の人類社会において、「最右翼層の警戒レベル」と同じ程度に「日本人の純血性にこだわる」ような人は多くはない。
一方で、「多くの移民が急激に入ってくると社会が分断されるのではないか。トラブルが心配だ」みたいなフワッとした不安を持っている層はたくさんいる。
重要なのはこの層↑をいきなり「外国人差別主義者め!」みたいに断罪しないことだと思います。
そうじゃなくて、「そうだよね、そういう不安はあるよね」という形で抱きとめにかかる度量を示せるかどうか。
先行する欧米社会においても「移民排撃運動」のような形で問題になっていることを考えれば、その不安は頭ごなしに否定するのではなく、いかにその「不安」と寄り添いながら進めていけるかが重要になってくる。
ましてや、欧米社会のように「自分たちのデファクト」を当然のように押し付けるパワーは日本にはないわけだから、そこの違いをちゃんと理解して、日本人が移民に対して警戒する気持ちを単なる日本人の後進性や野蛮性と繋げてしまわないことがフェアな議論のために必要なことだと思います。
そうやって「相手側の正義」もちゃんと対等に扱う情勢になれれば、
「移民反対!」vs「この外国人差別主義者め!」みたいな幸薄い両極端の議論を徐々に抑制
していって、
どの程度のスピードで、どういう制度のもとで国を徐々に開いていくのか?についてあくまで徹底的に具体的な制度論的検討をしていくこと
…が可能になるでしょう。
あまりに一気に開いてしまうと、ただ現場の奴隷労働者を補填するだけになって一般的な日本社会との間に溝ができて良くないことが起きる。
そして、今の日本の「人手不足」は、現場レベルの省人化の技術革新や給料アップを実現するための大事な圧力でもあるので、それを単に外国人低賃金労働者を無尽蔵にいれる安易な解決をしてしまうと「あるべき変化」を起こせなくなってしまう問題もある。
そういう事情を否定しないで、全部「考慮するべき課題」として均等に扱える環境を作っていけば、制度のハザマで不幸な事が起きている事例を減らしていくプロセスを安定して進めていく事が可能になるでしょう。
8. 『アメリカ型ではない多文化共生の形』を示せるかどうかがカギ
私は日本社会が持つ、あるいは「日本語」が持つ”馴化”力みたいなのを結構信頼していて、適切なペースで、適切な同化政策(といっても皇民教育みたいなんじゃなくてリベラル派でもまあまあ多くの人が納得できるようなもの)を行いながらであれば、「非日本出身の日本人」の比率が徐々に高まっていっても日本社会はその特性を失わずにいられる可能性はあると思っています。
下記記事で紹介した「海外の日本文化ファンの感じ」とかを見ていてもそう思う部分はある。
今はちょっとでも「日本文化に慣れてもらう」みたいな発想の政策を取ること自体に全て反対する原理主義的アナーキストと、「日本人の純血主義」みたいなレベルの世界観を持つ保守派に引き裂かれてしまっているところがある。
でもね、そういう「郷に入っては郷に従え」の要素を一切許さないみたいなことは、そもそも欧米でもどこの国でも実現してないし実現しえないことなんだ、っていう理解が大事なはずなんですよ。
結局、アメリカにおいてそういう「原理主義的」な運用ができている(ように見える)側面があるのは、アメリカがネイティブ・アメリカンを虐殺した更地の上に作った国家だから…みたいな側面だってあるわけじゃないですか。
日本は降り積もるように蓄積された自分たちのあり方がある国なんで、そこに「新しい血を一滴ずつ入れて馴染ませていく」みたいな発想をキチンと丁寧にやっていけば、歴史的に見ても渡来人がちゃんと馴染んでいく過程みたいなのをそれなりにやれてきているわけですよね。
過去の日本が排外主義的になるのは、その「日本社会が降り積もるように培ってきたもの」を人工的な理屈で切り裂こうとしたときです。
確かにそういう時に色々と不幸な出来事はあったわけですが、ただ今後の人類社会では、そもそもそういう行為(=その社会が培ってきた一貫性を人工的な理屈で切り裂く行為)自体が、「ある種の欧米文明中心主義的傲慢さ」だったのだ…というような理解が適切に普及してくるはずだと私は思います。
「理屈と現実」が違ったときに「理屈」の方を徹底的にリファインし続けるAIの数学みたいなのが普及することで、「理屈」を原理主義化して「現実」に「お前は間違っている!」と言い続けるみたいな行為の不毛さが徐々に明らかになってくる時代になっている。
それは「人権思想」とかの純粋性を毀損するものでは一切なくて、それが大事だと思えば思うほど、無理やり非欧米社会を上から目線で断罪しまくって、むしろ人類の半分ではその欧米的理想ごと拒否されかねない状況に陥っている今の人類社会を見れば当然出てくる「次のステップ」なんですよ。
「理想」を信じるからこそ、ただその「理想」についてこれない人を断罪しまくればいい時代がもう終わり、いかにそれぞれの事情と溶け合わせながら粘り強く普及させられるかが大事になってきているわけですね。
私の本の中からの図で言うと、「ある理想」「あるゴール」の存在が周知されるまでは「無理やり」やる必要もあるが、それをちゃんと「溶け合わせて定着させる」にはまた全く別のモードが必要になるという話です。
そうやって「飛行段階」に向かうやり方を日本社会が示すことができれば、以下のように「アメリカ型に他人を断罪しまくる事が正義」というモードが結局その理想を全然実現できてないよね・・・という今の人類社会の限界を突破する新しい旗を、日本発に掲げていく事が可能になるでしょう。
私がよく言う例ですが、アメリカ型の「政治運動」をやってると、「黒人以外がニガーって言葉を使うな」みたいなSNSウケする話は人類の大問題みたいな感じで大騒ぎするくせに、公立小学校の学費が学区によって全然違いすぎて、貧困層(多くは黒人)がマトモな教育を受けられないみたいな根本問題は全く放置されてしまう不均衡が起きるんですよね。
「世界を吹き荒れる正義の糾弾ごっこ」に適切な減速ギアを噛ませて、大地としっかり噛み合った形で変えていけるように転換する事が今求められていることなんですよ。
入管法関連においても、欧米のように「実現しえない理想を語って現実は全然違う」になるよりは、
「ちゃんと日本語を学んで日本でやっていくつもりがある人については、あまり理不尽な思いをする人が出ないように皆で色々と整えましょう」
…という形に”いかに大衆的な納得”を呼び込めるか…という発想こそが、必要とされているのではないでしょうか。
今回のこの入管法関連に関するテレビなどの日本のメディアの報道では、
「夢を持って日本にやってきて頑張って働いていたのに制度のハザマに落ち込んでしまって困っている人がいる。日本語で育った子女も突然送還されても生きていけない。これでは可哀想ではないか?」
…みたいな事例の紹介の仕方をしていることが多くて、個人的には結構「あるべき大衆的共感の形」まであと一歩だなと感じていました。
勿論、いわゆる「”人権”と”思いやり”は違うのだ」って話で、こういう↑「頑張ってるんだから仲間に入れたげてよ」みたいな言い草が原理主義的なジンケン思想からは受け入れがたいってのはわかりますけどね。
だからあなたがそういうタイプの意見の人なら、そういう主張を続ける役割の人も必要なのでどうぞ続けていただく事も一応無意味ではありません。過剰に日本が内輪で閉じすぎた窮屈な国にならない為にはそういう意見も必要ってとこはありますからね。
要するに最終的に大事なのはどちらの極端にも振れてしまわない「全体のバランス」で、
・原理主義的なレベルで「思いやりの話と人権は違う」みたいなものを先鋭化する意見
…が一方ではあり、もう一方には
・「日本人の純血主義」みたいなレベルの意見
…があった上で、
その両者にはバンバン主張しあってもらって、拮抗状態で打ち消し合ってもらうこと
…なんですよね。
そうすれば、その両極端のどちらでもないところで、超国際化していく今の人類社会の動向的に漸進的に合わせるタイプの制度変化を自然に積み重ねていくことなら可能なはず。
結果として、「誰かを人工的な基準で断罪することよりも、実際に生まれる不幸の数を減らしていくことが大事なのだ」という日本的な責任感のあり方が、世界的に再評価される流れまで押し込んでいきましょう。
9. あらゆるテーマで「メタ正義的コンセンサス」を作っていけば、極左も極右も乗り越えられる!
なんかさっきふと見たツイートなんですが、凄いナルホドと思ったので引用します。
ここでいう「商業右翼や陰謀論者を自衛隊の教育の講師として招く悪しき風習」は、左派が招いたとも言える。
自衛隊の存在自体に否定的な態度が続いたため「自衛隊をどう維持活用して人材育成するか」という議論の土俵に乗ることもできず、商業右翼がやりたい放題になった。https://t.co/umBvNn364W— Shin Hori (@ShinHori1) June 30, 2023
防衛大学の講義が、「商業右翼」に乗っ取られている部分があるっていう告発記事なんですが、左翼がそもそもマトモな軍事議論をしてこなかったんだからそうなってるんだよ…という指摘。
この堀さんはかなり左翼的な論者だと思いますが、この指摘は全くその通りだと思います。
「商業右翼」に乗っ取られるのが嫌なら、陰謀論じゃないマトモな安全保障をちゃんと左翼の人も考えようぜ、という話になってるんですよね。
そうすれば、「最右翼層の情念」に頼らなくても、中庸の現実的議論で「防衛問題」を扱えるようになる。そうすれば防衛大学の講義が「商業右翼」に乗っ取られることもなくなるでしょう。
その辺、以下の記事に書いたような大きな変化が、「20世紀型の紋切り型の対立」を徹底的に無効化する状況になってきている。
また、以下の記事でも書きましたが、日本における「女性活躍」も、そろそろ単に「古い日本社会を断罪して悦にいるTwitter論壇」みたいなのからいかに脱却できるかが大事になってきていると思います。
該当部分を長めに引用しておきますが…
例えば私の経営コンサル業のクライアントには中京地区(愛知岐阜三重静岡西部)の会社が多いんですが、中京地区はトヨタに代表される自動車産業に限らず色々な製造業の世界的拠点になっているので、地味だけど非常にニッチな分野で世界シェア一位だったりする結構高給で普通に海外駐在とかもある仕事が沢山あるんですよね。
でも、県内出身の女性はもっと「キラキラした仕事」を求めて東京とかに出ていくし、一方で他地域から「地味でも高給な仕事」を求めて男が入ってくるんで、物凄く人口の出入りが男女で不均衡になっているんですよ。
で、「地味だが高級な仕事に女性が残らない」「キラキラした仕事(必ずしも高給とはいえない)を求めて県外に出ちゃう」みたいな話を全部まとめて統計化したら、給与の男女比の不均衡という「フェミニズム的課題」になってしまうわけですが…
一方で、この「男女差」が全部「女性差別」のせいか?っていうとそういうわけでもないですよね。
だから、「ジェンダーギャップ指数」みたいな何もかも丸めた数字で大雑把に殴りまくってるだけでは解決できないどころか、余計に「古い社会側」から女性への憎悪みたいなのが募っていって解決のための細部の工夫の積み上げが停滞してしまう。
解決のためには、その「地味な仕事」もやってみれば面白い・・・という価値観を掘り下げて、女性もそういう分野に参加しやすいカルチャーを作っていく必要がある。
(中略)
一方で、実際にそういう「油臭い産業」に夢を持って参加した女性が、中京地区の会社で実際に働く上での細部の問題に関しては、フェミニズムとかポリコレ的に言う「マイクロアグレッション」的な問題の解決は凄い大事なんですよ。
私のクライアントの中京地区の会社では、
「やっぱり女子トイレの数とか、社食にオッサン向けのドカ食いメニューしかないみたいな細かい問題とか、結婚出産期の女性特有の問題とかにはちゃんと実地に”使いやすい制度”を整備する事が大事」
…みたいな事をよく言ってました。
要するに、「ポリコレ的理想」は、「現実社会との双方向的なすり合わせ」を行うことによって初めて意味を持つのに、今は「ただただ無条件に古い社会をディスりまくれる旗印」が無責任なインテリに濫用されることで、余計に「マイノリティ自体に対する古い社会側の憎悪をかきたてる」事になってしまっている。
実際に「マイノリティの当事者」がその社会で生きやすくするという「本来の目的」が忘れ去られ、ありとあらゆる社会の細部をインテリが頭の中でこねくりまわした人工的な基準で断罪・糾弾しまくる事自体が自己目的化してしまった「ポリコレムーブメント」を、「より現実との双方向性を持ったもの」に転換していく流れが今必要とされている。
そもそも論として、単に「古い社会を断罪して悦にいるネタ」として消費されてしまっている現状を変えていくためには、そもそも
「男が(女が)逆側を抑圧している」っていう話にするのをやめるべき
…だと私は感じています。
ネットじゃしょっちゅう「女はツライ」、いや「男の方がツライ」・・・って延々と恨み言の応酬してるんですが、ほんと無意味すぎて嫌になるというか、そこから有意義な改善に繋がるはずがない。
それは単に「ルサンチマン(怨念)」を吐き出しているだけで、現実社会を良い方向に変えていこうとする意思が全く見られないからです。
何か男女関連で不均衡があるとすれば、
・過去の社会では性別で役割分担をして棲み分けていたが、それは多くの男女にとってそれなりにメリットがあったからそうなっていたはずでイチイチ恨み言にするのはしょうもない。
・一方で、今はそれをやめていく流れだから色々と現実の細部で変えていかないといけない部分はありますね。ひとつずつ具体的な細部を丁寧に変えていきましょう
…という徹底的にプレーンな意見だけを出すようにするべき。
で、例えば「私立医学部の入試加点問題」があったら、単に「女性への抑圧」と理解するんじゃなくて、田舎でも高度な医療が安価で受けられるような、欧米でもありえないレベルに行き届いた日本の医療システムを世界一の高齢化社会の中で維持するには、性分業によって生み出された男性医師の必死の献身で支えることが必要だったという”理由”を深掘りして理解し、どう改善すればいいのか?というプレーンで具体的な議論に誘導するべき。
そこで、
「問題の発見」→「その背後にある”理由”の深掘り」→「改善点の提案」
と進むべきところ、
「問題の発見」→「それが単なる”無意味に存在する抑圧”だと理解して怨念をぶちまける」→「感情的対立が深まり延々とSNSでバトルする」
…みたいなことを続けていて社会が前に進むはずがないんですね。
「それってあなたの怨念ですよね?」みたいなことを延々ぶつけあうのはそろそろやめるべき時だと思います。
いかにプレーンに問題解決だけに向かえるかどうか。それが真っ二つになりつつある人類社会を再度繋ぎ止める日本発の新しい正義の旗ということです。
10. 終わりに
社会に山積するありとあらゆる分野において、「カビが生えた20世紀型の紋切り型の対立構造」を超えていくような、「新しいコンセンサス」を作っていきましょう。それができる状況にすでに来ているはず。
「欧米的理想を持ってきて非欧米を断罪して終わる」のではなくて、「非欧米社会の事情への敬意」を持って、あくまでそのローカル社会の事情と欧米的理想を対等に見ながらすり合わせていく「メタ正義的発想」を丁寧に行っていけば、米中冷戦で真っ二つになりゆく人類社会を再度繋ぎ止める希望を提示していくことが、日本の新しい使命として見えてくるでしょう。
とりあえず、こういう社会全体の大きな課題みたいなテーマから、中小企業クライアントで年間平均給与を150万円引き上げられた話まで網羅的に扱いながら「メタ正義的な解決」について語った以下の本を読んでいただければと思います!
この本の「はじめに」部分は以下で試し読みができます!
また、この記事とツイになっている、最近の日本社会の「変化」は、歴史的な円安とバブル後最高値の株高が、「太平の眠りを覚ます黒船」になっているから起きている変化なのだ・・・という話について、以下の記事もお読みいただければと思っています。
■
長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。
ここ以後は、最近読んだ「日露戦争の資金調達」という超面白い本について、現代人類社会における日本の位置とあまりに似ていて参考になるなあ、みたいな話をしたいと思います。
日露戦争について書かれた本を読んでると、旅順攻略戦とか日本海海戦とか、どれも一応歴史の授業的に「結果」を知ってることが多いので、色々と日本側がピンチになっても安心して見ていられるみたいなところがあると思うんですよ。
でも一方で、当時の日本の財政関係者が、欧米の金融業者と渡り合いながら必死に少しでも良い条件で国債を発行しようと頑張っているシーンは、全然知らないことが多くて、めっっっっちゃ面白い本でした。
というか、最初に高橋是清がロンドンに着任して交渉を始めた段階で言えば、
いやいや、こんなの無理じゃん。マジで無理じゃん。どうすんのこれ?
…みたいな絶望感が凄かったです。
そこから徐々に徐々に糸口が見えてきて、終戦間際には当時の欧米において日本国債は大人気の投資先になっていた…みたいな話は、「旅順攻略戦」とか「日本海海戦」とか、あるいは「明石大佐のロシア国内での調略戦」みたいなのとまさるとも劣らないドラマという感じだった。
ここ以後は、上記の本自体の紹介や、当時の国債市場における日本とロシアの利回りの変化などから読み取れる当時の日本にとっての日露戦争が持っていた意味・・・みたいな話をします。
また、当時国際的に色んな事業の利回り低下みたいな問題が起きていた中で、世界の「英米型の支配構造」に対して異議申し立てをする勢力が大きくなってきて、その中で日本が取った役回り…みたいな話からすれば、いかに「現代人類社会と当時が似ているか」という話を掘り下げてみたい。
でも当時の日本は、日露戦争以後急激に「国際社会との対立を深め」ていくわけですけど、今の日本は少なくともそうはなっていかなさそうで、ちゃんと「国際社会との協力関係」を維持していけそうな、この違いはどういう部分にあるのか?みたいな話を以下ではします。
■
つづきはnoteにて(倉本圭造のひとりごとマガジン)。
編集部より:この記事は経営コンサルタント・経済思想家の倉本圭造氏のnote 2023年6月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は倉本圭造氏のnoteをご覧ください。