当方は最近、若者たちから「ミニマリズム」という言葉をよく耳にする。正直言ってその意味が分からなかった。美術界では「ミニマニズム」という芸術運動があったが、「ミニマリズム」は社会学的な意味を含んだ人生の生き方だ。そして若い世代でミニマリストと自称する人が結構増えてきているのだ。
資本主義社会の消費文化で多くの商品(アイテム)、物質に囲まれて生きる日々から別れ、最低限度の物質だけを所持し、満足して生きていく脱消費文化とでもいえるかもしれない。ただ、1960年代から70年初めの「アンチ物質主義」、ヒッピーの出現といった社会現象ではなく、21世紀のミニマリズムは、物質の能率的な利用と快適な過ごし方を追求する「ポスト物質主義」の生き方といえるだろう。
特に、コロナ禍の中で人々は生きていくうえで、何が必要で何がそうではないかを学んできた。20代、30代といった若い世代はコロナ禍時代の3年間で人生の生き方で再考を余儀なくされたのではないだろうか。
生きていくうえで、どれだけの物質や機材が必要か。「絶対に必要なもの」、「あれば良い物」、「なくても生きていける物」、「ある必要がない物」、等々に分類できるかもしれない。オーストリアの日刊紙スダンダードによると、欧州の平均的な家は約1万点のアイテムを所有しているという。アメリカの平均的な家になると、なんとその3倍のアイテムを所持しているというのだ。アイテムに囲まれた生活だ。
ミニマリズムは「シンプルは美しい」という哲学を人生で実践する生き方ではないか。地球温暖化による気候不順もミニマリズムを発破かける契機となったことは間違いないだろう。
換言すれば、「人間と万物の関係」の再考だ。人が人生で悩むのは、多くは万物と関係する。若いミニマリストは自分の住居には最低限度の家具しか買わない。直ぐに引っ越しするからではない。生きていくうえで必要な家具は多くはない、という認識があるからだ。収集家以外、多くの腕時計を持っていても意味がない。腕時計は一つで十分だ、といった具合だ、出来るだけ物を買わないし、所持しないようにする。商売人は客がミニマリストと聞けば、顔をしかめるだろう。「豊かさ」、「幸せ」はどれだけ多くの万物を所持するかで決まるものではない、という人生哲学が多くの人々の心を捉えれば、商売人はお手上げとなる。
仏教では「捨てる」、「捨離」という言葉がある。不必要な万物、思考を捨て、そこから自由になることが幸せに通じるというのだ。その意味で、ミニマリズムの歴史は長い。出家して修道院にこもり、真理を追究する人生もその時代のミニマリストだったといえるかもしれない。私たちは多数の不必要な万物に囲まれている。例えば、20枚、30枚のTシャツを持っていても、着用出来るシャツは1枚だけだ(ウィーンでは慈善団体「カリタス」や「フォルクスヒルへェ」が不必要な衣服を集めて、困っている人に提供している)。
参考までに、ミニマリズムは中国で現在、若い世代で広がる「低欲望主義」とは違う。「躺平(タンピン)主義」の日本語訳の「低欲望主義」は、「食事は日に2回でいいし、働くのは年に1~2カ月でいい。寝そべり(低欲望)は賢者の行動だ」といった哲学だ。ミニマリズムは低欲望主義ではなく、溢れる万物から解放され、快適な生活を享受するための積極的な対応だ。だから、ミニマリズムがニヒリズムに陥る危険は本来少ないはずだ(「『ニヒリズム』と中国の『低欲望主義』」2021年7月18日参考)。
ただ、21世紀のミニマリズムは決して容易ではない。独週刊紙ツァイトは2020年1月30日、「なしでやっていく余裕がなければならない」という見出しで、ミニマリズムが「捨てる」という本来の世界とは別の新しいビジネスへの入り口となっている、と警告を発していた。同紙は「ここにきてミニマリズムは広告業界に完全に乗っ取られ、意味のない形で再解釈されている。今日のミニマリズムへのオマージュは、超富裕層や国際企業によってもたらされている」と批判している。
「ミニマリスト」を自負する若い世代が増えてきたが、コマーシャルに乗って多目的の高級品に代えただけ、といった生き方が少なくないのかもしれない。いずれにしても、万物を愛をもって管理することは、多くの人にとってハードルが依然高いのだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年7月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。